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  • 2012.12.28 Friday
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天の白滝 六十一

一緒に死ねたらよかった。そう何遍も思った。一緒に死にたかった。こんな残りの人生何の意味があんねやろ、ないよ、なんも。罪滅ぼしか、ただの罪滅ぼしのために生きる、それが俺に残された道か。それでも死にてえなと思いながら死ねずにただ生きてきた。闇雲に生きてきた、俺の周りはいつも薄暗くて手探りで何かを考えついてもすぐに捨て、何か見つかりそうな気がしてもすぐに失ってはの繰り返し、何一つ残って積み重なっていかない、積まれていくのは俺の罪悪感だけだった。外に一歩出るのでさえ苦痛になり家でじっとして、何もせず伯母の世話になっていた時期もあった。するとこんだ一日一度顔を出し飯を持ってきてくれたり家のことをして帰っていく伯母と顔を合わすことさえ苦痛となり、伯母から逃げるようにして外に飲みに行くという日が増えていった。そうしてそれから俺は博奕にのめりこんで行った。博奕場におると伯母と顔を合わさずにすむ、俺の過去を何も知らない連中に囲まれてただ博奕に集中していれば良い、これだ、と俺は思った。俺はもう博奕だけをして生きよう、ほんで酒を毎日浴びるように飲んで、早死にしよう、このまま行くとあと十年も持たんやろ、そう思って暮らし始めたのが、二十二の年であった。よくそんなんで生きてこれたなぁと今にしてみると俺は思う。そして博奕をやり始めた頃と同時に女というもんを知り、女とおる時は何も考えずに没頭できるということを覚えて遊郭に入り浸り、その日博奕で勝った銭をぜんぶ使い果たして帰るという日も多々あった。

完全な無頼者として村中に知れ渡り、伯母からきつく叱られても言うことは聞かず、酒と博奕と女でなんとか身を支えるかのようにして生きていた。

しかし何事も俺はうまく続くということがない、こんだはこの身を支えてくれている酒、博奕、女までもを厭悪するようになっていったのである。

酒を飲んでは何も美味いと感じられない、最悪な悪酔いが続く、博奕場に赴いては誰彼構わず悪態をつき捲って荒事となる、女郎を買って、さあ寝ようというときになったら目の前におる女が嫌なもので出来ているような気になってきて堪らなく女を殴って宿を出るという日も続くようになり、俺を支えてくれていた酒、博奕、女、この三つがまるで俺を支えてくれない、このままでは近いうちに何かやらかして牢屋に入れられるということにもなりかねない、獄舎に入るくらいなら俺は死んでしまいたい、死ぬか、死ぬか、もう死ぬしかないのか、こんなに苦しいならば、死ぬしかないだろう、もう死んでもいいだろう、もう死ねるような気がする、死ぬ、どこで死ぬ、俺の死に場所に一番相応しい場所は何処か、そんなのは決まっている、あの場所しかないと俺は思った。俺の死が今でも横たわっている場所。脱け殻が戻りたい、ちゅうとぉ、そう呟いた俺は蒲団からぬっくっと起き上がるとその場所へと向った。

空は眩しかった、真っ白であった、俺の引き裂いた肉の血をこの空に振り撒いたらどんだけ鮮やかに冴えるだろう、振り撒きたい、俺の血一滴残さず、俺はこの天の中で死にたい、天を真ッ赤いヶに染めぬきこの天もろとも死んでやろう、天を連れ立って俺は、し・・・。

そういいかけたときであった。なにやらその場所の方から赤ん坊の泣き声が聞こえたような気がした。俺は訝りながらその場所、俺の自家へ近づいた。

俺がここで生まれてから十五歳の夏至ごろまで、俺と家族はこの家で一緒に暮らしていた。俺があの時殺していなければ、今でもここで一緒に暮らしていただろう。生きとったら親父は相変わらず今でも朝早くから百姓仕事に出て行く毎日を過ごしていただろう。

帰ってきたで、親父、そう心の中で自然と言った俺は、そう言えた俺は今なら死ねる、とそう迷いが切れた、やっと俺は死ねる時がやってきた、もう死んでもいい、本心でそう思った。

あれ、やっぱり赤ん坊の声が聞こえる、おかしいな、ここはずっと廃屋で誰も住んどらんはずやが。

外から見ても自家は廃屋そのもので、雨戸は一つなくなってるし、もう一つは外れかけて傾いている、折れた軒が垂れ下がっている、障子はこれでもかというほどぼろぼろになっている。縁側には鍬が置かれたままになっている。親父があの日一日の農作業を終えてうちへ帰ってきて縁側で少し夕涼みをしてからそこに鍬を置いたまま家へ上がったのだろうか。雑草が生え放題となった庭には草で半分隠れたカメの墓と書かれたでかい石がまだある。俺が幼いときから飼ってて八年くらい生きて死んだカメを埋めた墓である。

この十二年間この家には誰も住んでいない。家は人に住まれてようやく家である、誰も住まない家は最早家という形があるだけの空っぽで何の役にも立たない巨大なから箱と同じである。

主を失った家の姿は俺の姿そのものであるように思えた。

家の存在価値とは人が住んでくれることである。

俺の存在価値とは家族を喜ばせ、助け合って生きることだった。俺は存在価値を壊した。

俺はみんなの存在価値がそこに同時に存在していたこの家を殺した、そんな俺をこの家は呪い続けているように今までは思えたが、しかし今の俺の眼前にある自家は俺を拒んでいるというようには見えなかった。俺が来たことに、ここで死ぬと決心してやってきたことに、やっとおまえを許せる、安心したという顔で俺を見ているような気がした。

役目を失った死んだ家であるのに、何故人が住んでいる家よりもまるで生きた物のように様々な感情を内に宿しているように見えてくるのか不思議であった。

「戻ってきたで、一緒に死のう」そう小さい声で俺は言うと戸に手をかけて開けようとした。すると確かに中から赤ん坊の泣き声がはっきりと聞こえた。俺は建てつけのひどく悪い戸をガタガタ言わせて無理やり力づくで抉じ開け戸がはずれてそれを横に立て掛けると走って家中声の主を探し回った。

家の中は何故ここまで荒れているのか、残骸が散らばったようになっており、それらを押し退けて進むと唯一俺の暮らしていた時のままに置かれていた背の高い階段箪笥が目に入った。俺と向き合うように階段は上へと伸びている。一番上の段を見やると何かが乗っかっている。どうやら少しおとなしくなった泣き声もそこから聞こえて来るようだ。

俺は幅の狭い箪笥を猫みたいな低姿勢で慎重に上ってゆく。ふぎゃらふぎゃらと鳴くその主に近づくのに驚かせないようにと俺は静かあに一段一段上ってゆく。そして一番上段の手前まで上るとそのものは生成りの白絹のきれにくるまれていて顔だけは出ていてたが、ふがふが鳴いているその顔はまるで白餅のように白く、また見た感触も白餅のようであり、頬だけは桜に染めたような色をしていた。目をぎゅっと瞑ってずっとふがふがふがふが泣いていた。

俺はその赤ん坊を真面目な顔でじっと眺めていた。実際少しの間であったと思うが、俺は一日がここで過ぎたと思える、そんな気が一瞬遠くなってまた戻ってきた後、俺は気付くと勝手に腕を伸ばしそのものを腕の中に抱いていた。やっと辿り着いた死を今諦めた俺と言う己れに降り懸ることはもう決まっている死以上の何か、死よりも俺を死に至らしめるはずである何かを俺は今おのれは抱いた、俺は今、それを自分のものとした。それはあたたかかった。今までの何より、それはあたたかかった。


























天の白滝 六十

 

なんでそんな気持に俺はなったんやろう。俺がどれほど辰次郎をそねんでいるのか、そんなことは辰次郎は露知らずという真に廉潔な顔だったからであろうか。

ああ、余りに情けなく、冬風や骨の芯まで届けれり。

そんな出たら目な俳句を詠んでいるうちに、我家へと到着した。

「ようこそ、俺の我家へ」とは俺は言わなかったが、そのような気持ちで辰次郎と一緒に家の中へと入った。

辰次郎は俺を居間まで上げると、直ちに蒲団を押入から出そうとしたので、慌てて俺は言った。

「あっ、なんや、家着いたら、きゅーうに腹痛がどっかとンで行きまひたわ、はははは、けったいな腹やね、胃ィも我家が一番ちゅうてね、ちゅうてんのかしらンけろも、ははは、ほんますんまへなんだ、おおきに、あ、茶ァ入れまっさかいね、ゆっくりしてってってってくらはい」そう言うと、ほっとしたような辰次郎は「それはよかった、ほなお言葉に甘えまして」と充足な顔で言い寛ごうとしてくれたので、俺はしゃかしゃかと機敏に動いて茶を入れに行った。

茶の湯を沸かしながら俺は超高速回転で回り凄まじい飛沫を撒き散らす水車のように頭の中で辰次郎に謝る言葉を回して考えだした。

しかし、ただ出てくる言葉は「すんまへん」「撲ったりなんかしてすんません」「ほっんまにすんませんでしたあっ」と言うような言葉しか見当たらず、すんまへん、すんまへん、すんまへん、と叫びながら超高速回転で回り続ける水車は無意味な回転に絶望して突然に停止したことで水車を構築していた木板の全てに亀裂が一斉に走り一瞬にして自壊した。

俺はその水車の残骸にまみれたなづきがずきずきしながらも、内広がった水辺の水面に浮かぶ幾多の小さな木片にそれでもしがみついて離れない「すんまへん」という言葉たちに憐情を抱きながら、入れた茶を辰次郎のところへ持って行った。

静寂な宵に満ちた間の畳床の上に座っている慎ましやかな辰次郎と差し向かって茶を飲みながら、絶好の折を探すのだが、辰次郎は喉が渇いていたのか、茶を飲むと湯呑を持ったまま膝の上にちょっと置く、するとまたすぐに茶を口へ持って行く、俺は湯呑を膝上に置いた瞬間に、ここが折りやっ、と内で叫び話を切り出そうとするのだが、そう思ったら、またすぐに湯呑を口のところへ持って行こうとして、やっぱりいらないかな、と思うのか、またぞろ持ってった湯飲みをまた膝の上に置いたりするのを繰り返し、俺が言いかけようとして口を開けてはまた閉める、俺も同じように茶を飲んだり床に置いたり、て繰り返したりと、一向に絶妙な機に恵まれない。

しかも、辰次郎も俺と同じく何らかを深く考えているような顔つきでそれを話し出す機を窺っているように思える。それはまずい、辰次郎が話し出す前に俺は先に謝らなければならない、早く切り出さなければならん、気は甚だ焦り、口火を切るのに体勢を正そうとしたら足が湯呑に当たってそれをひっくり返してしまった。わちゃあ、と思いながら「ははは、あっつぅ」と笑いながら手拭でこれを吸い取っていると、前から不意を討つように辰次郎に少し改まった調子で声をかけられた。

「あの、城戸はん、先達てのことなのですが・・・・・」

そう切り出されて、俺はしまったあっ、と内心で叫んで辰次郎に顔を上げた。

すると驚いたことに、辰次郎は顔を酸漿のように赤くして涙を目に溜め、俺と目を合わせた瞬間床に手を着いて、一心に目を床に落とし口を切った。

「わたしが、至らなかったために、しらたきはんが、あのような危ない目ェにおうてしもて、また城戸はんにえらい御心配をかけさしてしまったことを、どうか許して頂けるやろか、この通り、誠に申し訳なかった」

そう切れ切れな声で言って辰次郎は己の頭を床につけて俺に切に謝った。

俺は、呆気にとられてしまった。そして自ら企てたこの拗けがましき魂胆の因果を俺は辰次郎から直裁に今諸に受けているのだと思い知らされ恐ろしい敗北に打ち砕かれた心は最早、木片にしがみついたすんまへんと呟く声たちも敗亡の嵐の強烈な突風により、うわあーと言いながら飛ばされて行き跡形も消えてなくなった。

俺は完全の廃残により酷い虚脱に見舞われたが、まだ頭を下げ続ける辰次郎を目の当たりにして、辰次郎という人間の懐の深さが如何に深いかを知り、畏れ入って、負けを認めずにはおれなかった。

しかし、そうやって潔く負けを認めた瞬間にまた違う感情が湧いてきた。

辰次郎はもしかして、俺が考えていたことと同じことを俺にやったのではないか、と思ったのである。俺が図っていた先手を打つ、という策を、その先手のさらに先手を打つ、という意企がそこにあったとしたら?そう思うと、その方が俺は心底救われると感じた。そうであってほしいと願った。俺はこの期に及んでまだ救われたいと思っているからそうやって訝りたい気持もわかるわかる、わかるよ、俺は俺の気持がわかった、情けなさ過ぎて泣きたい気持になった。もうこの際辰次郎と二人で泣きながら酒を飲もうかと俺は思った。

それ、いいかもしれない。そう思った俺は練りに練りこました臥薪嘗胆が立ち消えとなって胸苦しいこの進展を切り抜けるには酒がどうしても必要だろう、こんなことになったらもう開き直る、己れという自我から逃げこます以外に自我を保てない、と奇策に走って、黙って辰次郎の右肩に手を置くと、俺は声を落として大様な感じで告げた。

「なんかしてんねん、辰次郎はん、謝るんは、わしのほうやんけ、殴ってもうてほんますまんかったな、ずっと悪かったと思っとったんにゃ、痛かったやろ、それでお返しちゅうたらあれなんにゃが、ええさかいィ同じように俺を今ばあんと殴ってはもらえんかの、どや辰次郎はん、わしの横面をな、こう思っきしどがーんと殴ったってもらえんけ」そう見振り手振りしながらすらすらと口から出てきて俺は吃驚した。諦めの持つ蛮力とは、これのことか、どれや。

辰次郎はそれを聞いて驚いた顔で俺に向き直ると、ぶんぶんぶんぶんと頭を横に振って応えた。

「く、熊太郎はんを殴るやなんて、わ、わたしにはできんです」
「くはははははは」俺は笑いながら立ち上がって土間に行くと一升瓶を持ってきて笑いながら言った。

「はははは、手ェれ殴たら手ェ痛いさかいなあかんわ、ほなこの一升瓶でね、かまへんさかいィわいの頭をかちこーんとどついてもらえんか」すると顔面蒼白となって「め、滅相もない、そんな、そないなこと、できまへん、わたしには、堪忍致してください」と言う辰次郎にまた対座して座り俺は一升瓶を傾けた。

「ははは、それは冗談やがな、辰次郎はん、どや、酒はいける口か」

「ああ、冗談ですか、吃驚しました、良かった・・・あ、お酒は、滅法弱いのですが、好きです」

「ほらええこっちゃ、ほな、安酒やけろも、一杯やろか」と俺が言うと「ほな、お少し頂きます」と血の気が戻ったような辰次郎は湯呑を持ち、それに酒を注いだ。

辰次郎と差し向かいで酒を飲みながら、つくづくこの男は不思議な男であると俺は思った。

話し方や、最前の俺に対してとった態度など、気の弱さを節々に感ぜるのだが、しかし辰次郎のその外見の風格はまるで別人のように貫禄があり、いつでも凛としているのである。

この辰次郎という男を兄に持った弟寅三の混乱が見て取れるわけだが、そんな辰次郎と寅三は何一つ似ていないのかというと、そうでもないということがわかる。寅三も辰次郎も繊細な心の持ち主であり、よく周りに気を回していることがわかる。弥五郎もあいつは繊細でもあるが、結構荒削りな部分もあり、そこが弥五郎のいいところである。その違いはやはり辰次郎と寅三はええとこのぼんぼんであるという気品を備えており、それがないのは俺も同じである。

俺は控えめに酒をちょびちょびと飲み頬が薄く桜色になっておとなしい辰次郎を見て、この男は弥五郎や寅三と同じく信頼できる男であると感じた。

辰次郎に黙っていることを打ち明けても大丈夫だろう、そう俺は思った。酒を飲みながら、そう思ったので俺は辰次郎に隠している事柄を話した。

まず、しらたきは拾ったのは実は七年前のことであって、なのに、どうして今は二十歳頃の娘なのか、そのことについて話した。

静かに聴いていた辰次郎は寅三と同じく訝る表情はせず、素直に驚いていた。俺は察していた通りだったと会心すると、今度は、もうこれも話してしまっても大丈夫だろうと思い、寅三と俺の仲についても話した。しかしそれには辰次郎は特に驚きの顔を見せなかった。大方既に気色取っていたのであろう。

俺は結構感動していた。酒を飲みながら。しかしまあ、感動した途端に別の思いがぬまぬまという感じに現われるのは、どうしてか、それはしらたきの側におれるのは俺ではなく、この男辰次郎である意味が、そういったところにあるのだろうかと悲しむからであるが、悲しみながらもそれを酒で流そうとしてまた飲んで、辰次郎とたわいもないことを喋ったりなんかしながら、二極の陰と陽の思いを懐きながらも、俺はあることを思いついて、それについて考えているような、頭が眠りかけているような感覚でも潜在した意識の中で心中思惟をめぐらせた。

それはこの男、辰次郎を俺は信頼していると、心から俺はもう信じる、いや信じたい、これからもずっと、と思うがために、俺の一大事、大変に大事なもの、切要な事物、それを辰次郎に預けようと思ったのである。

それは松河家からしらたきの代価として手渡された千円のことであるが、千円てな大金は百姓なら一生かかっても絶対手にする機会もないような希有な代物である。

だいもつ、それは俺にとってあまりに大きな物と言える。俺にとって大きな大物である千円、それを置いておく望ましい場所というのはどういう場所か、それは絶対に誰にも盗まれない場所であるわけだが、それが未だ見つからないから、床下に置いているという始末で、これは非常にもって危険極まりない場所である。何故ならこんな貧しげな屋だから盗みに入る泥坊はいないかというとそんなこともなく、いないと断言することはできないので心配で仕方がないのであるが、だからといって、地中を深く掘りこれを埋める、ということもちょっとやろうという気になれない、それは俺がしらたきのことがどうでもいいからかというとそうではなく、俺が一生懸命に地中を掘っているところをもし誰かが、盗人が草の陰から覗いてでもいたらばどうなるか、俺が千円を埋めたその日の夜にもう千円は掘り返され奪われ、朝になって掘られたる穴を俺は見下ろし脳内で自作の穴掘り名人という浪曲が流れつつ穴に落っこちてその日は暮れるということが考えられる。そんなことになったら穴を掘らないほうがよかったではないかと穴の中で土から顔を出す蚯蚓と向き合いながら絶対想像にしがたい酷烈な後悔の念が待っており、それならまだ床下で眠らせておく方が良いと思えるからである。

ですから俺は、そうだ、今畳の下にある千円、これを最も信頼したいと思う男、辰次郎に預けるということにするのが一番ではないかと賢察したのである。

俺は酒が美味かったので、酒をしたたか嗜んだ末に、それを辰次郎に切り出してみた。

「あんね、ちょと辰次郎はんにね折り入て頼みたいことあんねやん、それ聞いてもらえるぅ?」
「勿論ですとも、なんなりと申してください」

「へへ、おおきに、これね辰次郎はんィ面と向って可也言い辛いことなんにゃがね、辰次郎はんも既に承知かもわかれひんのやが、わしィ、そのしらたきの代わりィね、千円ちゅうのんをもろたんやけろもゥ、ぅその千円ちゅうの絶対なくしたらあかんもんにゃと思てね、ずと今床下に置いとんにゃわ、しゃあけろそれではあんまり心配でしゃあなあてね、もしその千円、辰次郎はんィ是非ともこの千円、預かっとってもらえひんかなあて思て、そのなんでかちゅたら、うちやたらいつ盗まれる恐れもないこともないんちゃうか思てね、怖いんだすわ、ぶっちゃけてまうと、しゃあけろ辰次郎はんとこやたら、そない盗賊が入らんてなこともまあないやろが、人がようさんおりまっしゃろ、うちはたった一人やさかいィわしがおらなんだら家は誰一人おらんさかいィ泥棒でもとっ捕まえてきて泥棒に留守番させるゥてなわけィもいかしまへんで、ほんィ心配が尽きひんでね、や、無理ィは言わなんだ、ほんませいぜい気楽ゥに考えとくれはったらええんにゃ」

そう言うと辰次郎は、終始穏やかな顔でこれ聞いて、ほがらかな顔と調子で応えた。

「熊太郎はん、あなたは凄い御方だ、並べてまだあんまり知らないしかも当の家の息子に千円を預けるということはしないでしょう、しかしあなたはあえてわたしにそれを頼んだ、わたしはその想いに感謝致して、重責尊んでその千円を預からしてもらいます、そして熊太郎はん・・・うちの親のしたこと、わたしが代わって謝りたい」

 そう言ってまた頭を下げようとしたので、俺は慌てて辰次郎の手をぐっと掴むと、うんうんと首肯きながら落ち着いた声で言った。

「大事あらへん、辰次郎はん、あんな俺はなんにゃ、しらたきと離れてからね、ずっと暗いとこを歩き通しで来たけろもね今までにない楽観のような、こうごっつい解放された気分なんにゃ、それはなんでかちゅうと辰次郎はんの御蔭や、俺はな、もうあんたんとこの親御さんのことを怨むのももうやめる、しゃあさかい辰次郎はんもそういったいらん煩慮をもうせんでええ、ね、これからは仲良うみんなとうまァくあんじょうやてけるようィわしも精進すっさかいィね、また感謝すんのんはこっちゃのほやでほんま、おおきに、おおきにな辰次郎はん」

辰次郎の手を強く握って俺は酔いが心地好く回ってくれている体に身を任せ心からそう告げた。

二人は互いの人徳に触れることがはじめてできてこんな肩の荷が下りるということもない、よかった、ほんまよかった、と口にしなくともわかってる、嬉しいなあ、どや、これから飯でも食いに行かへんけ、みたいな感じになって、俺は辰次郎を飯処へと誘った。

辰次郎は実に残念だが、という顔で今日はすぐ家に帰ると言ってから出てきたのでもうそろそろ帰らなければならないということを言って、なんて謹厳実直な男であろうか、と俺はまた感激して、ほな飯はまた今度ィしょう、と言い、あ、忘れてた、千円千円と、畳を上げて下から千円の風呂敷包を上げると、辰次郎はこれを堅実な態度でしっかと受け取ると「大事に保管しておきます」と言い、俺は千円が元あった場所に戻ってくれることにほっとしたような気持で「おおきに」と応え、本当に辰次郎に預けておく以上に一番善い方法はないだろうと信認して、この悪辣で不義理な銭である千円を長男の辰次郎の苦衷を察しながらも預けるという清水の舞台から飛び降りる如く行為、運を天に任せるといった行動に出たことも、俺はこれを機にすべてがうまく回り始めて行く、うまく流れ行く川に水端を流してみせただろうと、そう信じる思いで俺は嫉妬と憎しみも忘れ辰次郎にしらたきとの幸福な未来が係っている千円という千金を預けた。

辰次郎が帰った後も俺の心は清み切って上濁りもしない真冬の湖面に映った青天井のように晴々としていた。


























天の白滝 五十九

 

ほんまやったら、俺は処刑されていた。少年の身であろうと犯した罪は大罪であって家族三人を殺した俺はほんまやったら死刑で恐ろしい刑に処されて死ぬべき人間であった。

しかし罰を免れた俺はこうやってのうのうと生きている。飯を食って酒を飲んで博奕をしては屁をこいたり糞をしたり、時に仲間らと笑ってはしょうむない話をしたりして生というものを受け、存在している。

死ぬべき、と国が決めた罪人がその国の中で生きているということは、国から滅ぼされるべき身であるとされている人間がのさばっているというのは、この国の汚辱であるのだろうか。日本中の人間が俺のことを汚泥であると感じているのだろうか。

ずっとそんなことを思って俺は生きてきた。だから人の目を見ることが未だに怖くて苦手であり、できる限り人と目を合わすことを避けてきた。

例え、辰次郎のような生き菩薩のような人間に、あなたの罪は許されました。と言われたとしても、俺はこのこわばり果てて己の世界を世に映してでしか世を見ることができなくなってしまった俺の鋼鉄のような信条を洗い落とすことはできないと思っている。

警察に追われて追いつかれたら捕まって殺されるから、必死になって逃げている、という夢をよく見る。俺は今でも家族殺しの罪が露見して、警察にしょっぴかれるのではないかという恐れに震えながら生きている。時効というものがあるようだが、いったい今の日本の制度はどうなっているのか俺はよく知らない。知ろうとも思わない。知って、ああ、よかった、もう時効過ぎてるから俺捕まえられへんですむ、うっわあ、最高や、ぃやっほぅ、と歓喜の叫びを上げる俺はどこにもいないからである。

俺はこの罪を手放すとき、俺の本当の死がやってくるときだと信じている。

俺はこの罪と共に死ぬ、それは誰が決めたことでもない、己で決めたことである。しかしそうは思っていても国家に殺されるのはどうしても嫌で、なんで嫌かと言えば俺は国家を愛していないからである。右翼青年のように俺は国を愛している、だから俺は国に殺されても構わない、むしろ本望だ、そんな気持があるなら喜んで刑に処せられるのか、というとそうでもないのは、国の憲法と天皇とは繋がっているようで繋がっていないからであるが、つまり人間というものは愛していないものに殺されるのは嫌なのである。愛されないものに殺されるくらいなら自分で死のうと思って刑が決まっているのにその前に自死を遂げる者がいるのはそのためではないかと俺は思っている。俺も国などに殺されるくらいなら自分で腹を刺して死んだほうがどんなに良いだろうかと思うからである。

俺が今も生きている、ということは俺の中で間違っていることではないのだが、俺以外の多くの人間の中では間違っているとされている。多くの人間の法によって殺されることが正当であるとされている俺の命はいったい誰のものなのだろうか。自分の命というものはいったい誰様のものなのであろうか。神のものか、己のものか、己が愛する者のものか、己以外の知らない人間のものか、辰次郎のようなまっとうに生きる者のものか。

俺の罪とは、いったい誰の手によって贖わされるべきであるというのか。俺は間違った者の手によって贖わされたくはない。もし、間違った者の手によって贖わされた時、贖わした者は過ちを犯したことになる、これは重大なことではないか。人の罪は誰でもいいから罰を与えればそれで良いのだ、これではあまりに暗愚で粗雑な考えだと言える。俺は別に自分の罪を国に罰されたくないからこんなことを言っているのではない。なにかとんでもない重大な間違いを犯しているような気がしてならないのである。

そんなことを考えながら博奕場に着いたのだが、戸の前に突っ立って冷たい風に巻かれていると、俺はなんでか急に気持が入れ替わり、今日辰次郎に謝ることができなければいったいいつ謝ることができるというのかと思い、一刻も早くに辰次郎にこの前のことを謝りたいと気も漫ろとなって俺は来た道を走って引き返した。

先刻に辰次郎が道で坊主を助けた場所に辰次郎はいてなかった。まだ同じ場所で辰次郎が子供を抱いてあやしていたらそれはそれで吃驚するが、いてなかったことに悄然となり呆けたように立ち尽くし、ほどなく、あ、家に戻ったんかもしれん、と思い俺は松河家に向かってまた駆け足で走って辰次郎を探した。

往来を抜けると、枯れたような色の草や木が好き放題に伸びて雑多な景色に入り、そこを小川がちょろちょろと流れている。その向こうに生えた大きな松の木に背を凭せ何かを木筆で帖面に書き記している世に静穏な面差しの辰次郎がそこに立っていたのを俺は見咎めた。

うわっ、辰次郎がおったわ、どないしょ、俺は念願の辰次郎を見つけたものの、自分から声をかける勇気がちっとも出てこず逡巡して、辰次郎から気付いてくれへんやろかと思い、偶然ここを通りかかった熊太郎を演じようと、怪しまれぬようにさりげなく小川を挟んだ向こう側にいる辰次郎の前を行きつ戻りつしたり、後ろに生えた木の表面に手を当てて腕立てみたいな動作をしたり木に額をつけて瞑想を行っている俺という風に見せたり、枯葉を拾っては川に流し、それがどこまで流れてゆくのかを静かに見届けている俺、土に穴を掘り、何か研究対象にしている虫を真剣に探している俺、急に腹に激痛を覚え、道に蹲って艱難辛苦している俺、少しでも体を動かした場合、体内にあるものが下から出てしまうのではないかと静かな面持ちながらも心中では周章狼狽している俺、周章狼狽しながらも瞑想をしてなんとかこの深刻な事態を切り抜けようと目をつぶって心を研ぎ澄まそうと敢闘している俺、敢闘はしてみたが、実際すこしのものが外に出てしまったような気がして空を見上げて絶望している俺、しかし絶望して気を抜いているとすべてのものが安心したように外に出て行こうとするのではないかと慌ててまた瞑想に奮闘している俺、などあらゆることをしながらも自然とこの場所にいる、近くに辰次郎がいるなどとは夢にも思っていない、というような熊太郎という俺を演じてはみたのだが、辰次郎は熱心に何を書いているのか手帖にずっと筆を動かし、まったく俺に気付かなかった。

草臥れ儲けとなって、俺はぽかんと口を半ば開けて放心したように辰次郎を見てしまった。

すると間ンの悪い、俺が見ているときに限って辰次郎は俺に気付いてしまったのである。

はっ、という顔で俺に気付いた辰次郎に俺もはっという顔になって、それでも自分から声を掛けるのがどうにもやりづらいと思い、俺は咄嗟にまたどこかの内臓に激痛を覚えしゃがみ込み呻吟している俺を演じてしまった、すると辰次郎は「城戸はん、どないしはりまった」と心から心配そうな顔をして小川をひょいと飛び越えて渡り俺の元に駆け寄ってきた。

俺はもうこうなったら演技を最後まで通すしかないと思い、うーん、と唸り「あっ、辰次郎はん、いやね、なんやしらんが急ィ内臓の奥んとこらへんが痛んでね、しゃあけろ大事無いでふわ、すぐィ止む痛みやさかい、はは」と嘘をつく痛みに耐えながら腹の痛みに耐えているが大事はないという見てくれそう見えるようにして辰次郎に言った。

辰次郎は真摯にそれを受け止め、「そらあきまへん、城戸はん、わたしの背にはよおぶさってください」と言うのに俺は「いややややややや、ほっんま大丈夫やさかい、ほっといたらもう、すぐィれも立って走て飯喰うたりとかできまっさかい、いつものことなんだすわ」と慌てて応えた。

「ほんまだっか、どこかお悪いなら早う医者に診てもらわんとあきまへんがな、今から一緒に先生んとこ行きましょう」
「いやややや、これはほんっまなんでもない痛みなんふわ、体が悪いっちゅうよりかは多分精神かどっかから来とるもんなんすわ、われの体やさかいわれが一番ようわかるもんだっさかい心配はありまへん、おおきに辰次郎はん」

「そうですか?そうならわたしも安心ですが、しかしここにずっとおっては体が冷えて悪化するとよろしない、どっか休めるとこに行きましょう、さ、わたしの肩につかまってください」

そう言われて俺は困り果て不自然だが、もう治りました、ほらもうこんなに元気と言いながら猿のように木に登ってまた降りてこようかと思ったが、しかし待てよ、辰次郎に謝るのにこの場所で謝るより俺の家で謝ったほうがええんちゃうか、誰に見られるかわからない場所で謝るのは気が引けてしまう、もしそんなところをしらたきに見られてしまったら俺は情けなくて死にたくなってしまうだろう、だからこのまま痛い振りを演じ辰次郎を俺の住み家までおびき寄せよう、と思いなんかおびき寄せるってごっつい嫌な言い方やなぁ、虫かなんかをおびき寄せて殺す、みたいな言い方だなぁと思い辰次郎に申し訳がないという気持ちになったがそれも全部含めた謝意をあとで示さねばならないと思った俺は辰次郎をおびき寄せる為騙すぺてん師のような気分で辰次郎に向って言った。

「ほしたら、辰次郎はん、この道をもうちょい行て右行て左曲がたらわいの住んどる宿があるんだすわ、そこまでちょうすんまへんけろ肩貸いてもらえまっかいね」
「もちろんです城戸はん、ほなそこまでがんばって行きましょう」

そう深切にゆうてくれる辰次郎の肩に凭れ、気まずくまた面映いながらも家へ向った。

俺の住処が辰次郎にばれてしまうのは避けたいことであるのを重々承知していたが、こういう成り行きとなってしまっては致し方ない、そう己に言い聞かせ辰次郎に凭れ掛って歩を進めた。

辰次郎の顔をよく見ることも出来なかったが、先程ちらと見た辰次郎の左の頬にうっすらと傷のようなものがあり、まだ俺の撲ったあとが残っているように見えた。しらたきほどではないのだが、辰次郎も色白の肌を持っており、日によってか、光の加減によってか、青白く見えることもあった。俺がぶん殴ったとき、思いもよらず遠くまで飛んでいったのは辰次郎の力が弱かったからかと思うこともあったが、こうして掴まって歩いていると、思うよりしっかりとした体つきであり身は華奢であったが、骨は太そうだなあと意外であった。おそらく、まさか俺に殴られるとは全く意想外であったため力を抜いて安心しきっていてあんなに吹っ飛んで行ってしまったのかもしれない。

なんて謝ればええんにゃ、とそういや俺は謝る文句を好い加減にしか考えていなかったことに難渋して、本当に胃の部分が痛くなってきた。

男が同年の知り合いの男に向って平謝りに謝る。これはとんでもなくみっともないことであって、どんな理由がそこにあろうと厳烈な苦汁なくしては行えない。

まだ辰次郎が年下であってくれたほうが良かったと俺は思った、同年というのはなんでかわからなんだが、同等、同格であると思うため、そこで対等とならないどちらかが優る、劣る、となった時、劣ってしまったほうはものすごい悔しさに打ちのめされるのである。

しかも今の俺と辰次郎とは目に見えて俺の完敗、惨敗であって、それを更に俺はこれから負けの戦に出ようとしているわけであるが、これを普通にやってしまうとただの醜状をさらすだけに終わるが、俺はそれを少しでも払拭したいが為に、態と自ずから醜態を曝けて辰次郎が俺に本当は謝って欲しいなと思っている隙を感ずる前に、もう前以て先に謝ってしまうという先手を打つ行為であって、そんなことを考えている俺はほんま情けない無様な男であるなあと思って、そう思って俺の心は黙り込んだ。

ちょっとだけ、無になりたい。とそう思った。心を無にすることができなければ、その間だけ俺はこのわびしさの頂上みたいな内的世界から逃れず、あまりの己のわびしさに意識を失うかも知れず、そうなってしまってはせっかくのこれまでの好機を無駄にしてしまう。まあそんなことゆうて意識失うなんてことあらへんねんけどね。兎角、早く謝ってしまいたいと思った俺は、またわびしさの増す、謝れば済む、謝るのは辰次郎のためではなく、己が早くそのことについてすっきりさせたいからである、それはわかっていたよ、わかっているよ、わかっていて、もうどないせえっちゅねん、わかっていてもいなくてもやることはおんなじやんけ、違うのはその心の内にあるもんで、上ッ側でなんぼ謝っても内ッ側で、はっ、辰次郎これでおまえに借りは返したで、もうこれで俺は気が楽や、ありがとう、ではさようなら。ちゅうてても、意味あらひん、俺は決してそんな気持で最初から謝ろうなどとは思っていなかったのだが、なんでこんなことになってしまうのか、わからない。何も考えたくなかった。何も考えずに謝れたらどんなに楽だったことでしょう、ってそう考えるってことは俺は楽をしたいってもう思ってるってことが決定されてしまうというのか、誰に?俺か、俺は決定せざるおえない立場に今、立っているのだろうか。では、決定しよう、俺は、辰次郎が神以て憎い、そしてものすごいことやっかんでいる、しかし俺は謝らんければならん、それは何故かと言えば、しらたきがこれからも辰次郎の側におるからである。俺ではなく、この辰次郎が。

夕闇の降りてこようとする中、俺は辰次郎に寄り掛かって淡く焼けた雲のまだらと同じ色を映した辰次郎の顔の反面を見た。しかしそれは何故か太陽や月を見るのと同じような思いで俺は見ていた。


























天の白滝 五十八

 

明治二十四年如月のこの日俺は相変わらず何もしないで午過ぎから山羊の親ッさん方で酒を飲んでいた。

一月前、辰次郎に謝ろう、そう思った俺は一度松河家へ訪ねた。するといつもの下人が出てきて、俺が辰次郎にちょっと話があるので呼んでもらいたいと丁寧に頼むと「あにぼんはんは今いはりまへんさかいどうぞお引取りください」と冷たくあしらわれ、ほないつやったらいてるのかと聞いたら「だいたい家にはあまりいはりまへん」とこない返され、けったくそ悪い気持でしょんぼりしてそれきり諦めてしまったのだった。

寅三に頼むという手立てもあるにはあるが、あまり寅三と俺が密接していると疑われそうになることは出来れば避けたほうが良い、寅三に迷惑がかかってしまうし、またそれでしらたきが外に出られなくなることも考えられる。

それにしても、しらたきとたった一月会わないというだけで心が散らし鮨のように散ってしまう。今までなら生きていくために俺は博奕をがんばっていたと言える。それはしらたきがいたから、しらたきを食わしていかなくてはならないという思いでまるで仕事をしに行くように博奕をしに行ったものだ。そして博奕は楽しかった。しかし、しらたきが俺から離れて行ってからというもの博奕をしている最中にも溜息がこぼれたり、家帰ってもしらたきおらんねや、さびしいなあ、などと嘆きながらやっていたりするからちっとも楽しくない。

だから俺は今日もこんな時間から酒を飲んでいた。往来を忙しそうに行き交う人々らを眺めつつ飲んでいた。羨ましいな、という思いで最初は眺めていたのが酒が回ってくると、ご苦労様ですな、という気持に変わって行き、そしてもっと酒が回ってくると、われの仕事はそれなんか知らんけろもね、俺の仕事はこれ、これなんにゃわ、わかりますか、わかりますか、その意味をわかりますか、という完全な酔漢の空しきあらがいとなったもので思考を埋め尽くしていく、悲しきかな。

今日は節分だからといって大豆や鰯や恵方巻を売り子がさばいている。

「かっ、何が節分、何が鬼は外福は内じゃ、あのなあ、鬼は己の外ィ出るかあ、あんだら、鬼は己の中ィしかおらんわちゅうねん、鬼はまさに己を喰わんかとしてやね己に向けて牙を剥き続けとるもんでやなあ、それィ気付くもんが福を授かることができるっちゅう話や、ほんま、豆撒いて何叫んどってもええことあるかあ、あかんあかん、そんなことばあっかしゆうとったら出直し食らうっちゅう話やでほんま、だいたい柊に鰯の頭刺して戸口ィ立てたり、でっかい巻鮨を恵方向いて阿呆みたいな顔してかぶりついたり、豆を大声で怒鳴り散らしながら撒き散らしてあとで無言でもくもく、あーめんどくさいなあ、とか思いながら片付けたりやな一体人間は何がしたいんにゃ、狂っているとしか思えまへんでっせ、みんながやっているから自分もする?それではあまりィそれはうといちゅうもんにゃ、情けないでほんま、俺もね昨年はしらたきと一緒ィ豆巻いて楽しかったなあ、しゃあけろ今年はできひんがな、毎年毎年人々がみんな節分できると思うなあ、俺の前で豆売りさばくなあ、あほんだら、あ、ちょう酒持てきてくれる?酒、さ、け、うん燗でね」

俺はそう独り言をぼやいて残りの酒を一気に呷った。

ごろんと横になって肘を着き、雪見障子の四角く切り取られた形の空を見上げた。

晴れ渡ってはいるが霞がかったような寒そうな冬空であった。

弥五郎はまたすぐ村に帰ってしまったし、寅三とも行き違いになっているのか元日から会っていない、さびしいなあと思ってまた通りを眺めた。

通りを行ったり来たりする人の顔を見てみてもやることもなくてさびしいなあと思いながら歩いているような人は一人もいない。いったい何を考えて生きているのだろう。こうやって眺めていると大方の人間は同じようなことを考えて生きているようにも見えるが、実際そうではないのだろう一人一人がぜんぜん違うことを考えて生きているかもしれない、しかしそのことに気付いて生きている人間と気付いて生きていない人間とではその差が歴然としていて、そこで分け隔てられてしまいそうな気がする。俺はそう思って、では俺はどっちにいるのかと考えてみたが、それがよくわからなかった。自分で考えていることが自分にとって難しすぎてよくわからなくなってしまったのである。しかし大事なことである、それだけはわかったのだった。

また持ってきてもらった酒を飲んでは外を眺め眺めしていると鬼の面を被ったちっこい餓鬼んちょが騒ぎながら走ってきて思い切り道にけ躓き、ずっでーんと派手にこけた。鬼の面もふっ飛んでいき真っ赤な顔になって大声でわあわあ泣き出した。ちょうどなんでか近くには誰もいてない一人で小児は泣いていた。少し哀れに思ったが、子供は気が移り変わるのがとても早い、直になんでもなかったかのように立ち上がるだろうと俺は見守っていた。しかし坊主は一向に起き上がろうとしない、うつ伏せになったまま涙と洟を飛び散らせながらわんわんと泣きじゃくっている。俺はもしかして打ち所が悪く大怪我を負ってしまったのではないかと心配になった。俺は助けに行ってやろうかと思い障子を開けたがすぐ下に低い垣根があり、それの向こうが急に落ち込んだ溝となっていて出るに出られない、戸口から出ると反対側なので大分回って行かなければならない、どうしようとぐずぐずしていると、その時、小僧の前にすっと自然に走り寄り現れた男が坊主を軽く抱き上げた。俺は驚いた。その男は辰次郎だったからである。

辰次郎は坊主をあやしているのか、何かを優しく話しかけながらまるで父親が子をいつくしむような慈愛の顔で坊主を見ていた。

俺はそれを見ながら複雑な思いにとらわれた。きっとしらたきを助けたときも同じような顔をしていたのだろう。俺が助けることの叶わなかったしらたきを辰次郎はあんな顔で助けた。俺のできなかったことを何故辰次郎はいとも簡単に出来うるのか、悔しさのようなもの、嫉妬のような黒々しいものが奥のほうから沸き立ってくるのだった。そしてしらたきの命の恩人に向ってそのような思いになる己の小ささにそれ以上にひどく悔しさにかられ苦しかった。

事実、辰次郎は俺に出来ないことすべてができる人間であるように思えた。

俺以外の人間には笑いかけたことなどなかったしらたきが辰次郎に向って不安を振りほどき微笑んでいたのは俺の見間違いではなかったのかもしれない。

すべての俺を覆っていた自尊心という殻がもろもろもろと剥がれ落ち、辰次郎から目を逸らすと障子を静かに閉めた。そしてまたぞろ酒を呷っては汲み、呷っては汲んで博奕しに行こうと心でぼそりと言ってぬぼっと立ち上がると勘定を済ませ、店を出てぬぼぬぼと俺は歩いた。売り子の籠の中に見えた大豆を食べ続けて気絶して寝たいな、と思った。

常識では考えられないようなことを起こさなければ、心がひしゃげて大きな龍に飲み込まれて死ぬ、そんなことを思ってはまた落ち込んだ。怖い、と思った。辰次郎の存在が恐ろしいと思った。

そして、俺はあのようにはなれないと思うのだった。なんでなのだろう。俺は罪人だからだろうか。


























天の白滝 五十七

  「またあとで話すけどもな、俺がしらたきを連れ帰ったっちゅうのんを辰次郎は知っとるんにゃわ、そやさかい、寅三おまえが俺と偶然道端で会うて、しらたきを送ってくれとそう頼まれた、とこないゆうといてくれるか」と唐突に俺が言ったのは、この二人なら辰次郎を俺がぶん殴ってしまったことを話してもわかってくれるだろうと思ったが、それを今しらたきの前で話す訳にはいかなかったからである。
「心得まった、ほなそゆうことにしとくさね」と寅三はそれに快く相槌を打った。

「しらたき寝てもうたんかいの」と弥五が蒲団にもぐったままのしらたきを見ておもむろに俺に聞いた。

俺はしらたきの掛蒲団を少しだけめくり中を覗いてみた。するときょろっとしたしらたきのふたつの目とぱちんとぶつかった。しらたきは起きていた。俺はしらたきと見詰め合って寸時、その意を汲み取った。そして弥五に返した。

「寝てもうとるわ」
「なんや、残念やな、わいもしらたきの寝顔見たいわ」と弥五が蒲団をめくろうとしたので俺は目にも留まらぬ速さでその手を制し「それは無理」とすかさず言った。

「いけずな兄貴やのぉ、ええやんけちょびっとくらい」と弥五郎はそれでも蒲団をめくろうとしたので俺はむきになってとめながら「いけしつこいやっちゃな、ほんま、姫の寝顔を見るとは百数万年早いわい」と弥五と遣り合っているのを寅三が「ははは、しらたき姫が目ェ覚ましますで」と笑った。

俺はふと、有明行灯の柔い明りに照らされた俺と寅三と弥五郎の男三人の影が巨大となって動く壁と天井を見た。

それはまるで、三つの影が合わさって一匹の竜となり、寝ているしらたきに今にも襲い掛かろうとしているような形に見えるな、と思った。

俺はそこで、また辰次郎を思い出した。あらゆることで辰次郎を思い出してしまう。それはあまりに辰次郎という存在が気になって気になって仕方がないからだ。今あいつは何を考えているのか。普段からいったいどんなことを考えて生きているのか。なんであんなに善の塊のような男なのか。そして、なんであんなに優しい男なのに、とてつもなく不気味な感じを俺に抱かせるのか。

最初に会ったときはこれといってそんな印象は受けなかったのだが、二度目に辰次郎を見たときから俺の中で辰次郎のその外面と内面があまりに一致していないような違和感のような不気味さを感ぜずにはいられなかった。二度目に見たときというのは、俺が少し遠くを辰次郎としらたきが仲良さそうに歩いていたのを見つけたときだった。

辰次郎の顔を思い浮かべてみると、やっぱり恐ろしい何かがある。何故か。辰次郎の顔は目が切れ長で若干吊り上っている。鼻と口は、特に特徴もない普通である。しかしなんでか眉の骨がぶんっと前に突き出していて、また眉が尋常ではない、仙人かと思うような立派なそして濃く黒い眉で少々下がり気味なのである。なのでその突き出して下がり気味の眉の骨と眉の下にある切れ長の吊った目がどうも変だなあ、合ってないのではないかという気がして、ずっと見ているとまるでこの世のものでないような奇妙な感覚を抱かせるのである。しかし、その眉にその目はおかしいでしょう、と思わせしめるような顔なのに、またずっと見ていると、実にいい顔だと思えてくるから不思議である。辰次郎は寅三と違い男前という感じではないのだが、男前を超えたというような顔、そこに男前かどうかは最早まったく関係ないというような、顔から念力が迸って甚だしすぎる、というよな気にさせる複雑かつ珍妙な顔なのである。それでいて、俺は寅三が俺と知り合った当初話してくれた自分の事を見ていないような冷たさを辰次郎からも感じると言ったことがよく理解できた。それはもしかして辰次郎の慈悲が余りに人間に理解できる優しさを超え過ぎている為に、優しさを優しさと感ずる前に疑いが先に生じてしまうというものかもしれなかったが、つまり、本当のところ何を考えているのかさっぱりつかみようのない人間だということである。そしてずっと見ていると何かを吸い取られてしまうのではないかと恐怖を起こさせるような目を持っているのに、しかしその個の持つ性質は暗いものではなく、むしろ眩しすぎる太陽の如く存在であるというような非常に理解に困る難解な人間なのである。

その時、あっ、と俺は弥五郎とふざけあい考えながら壁と天井に映りこんだ竜のような影を見ながら、気付いたのだった。竜顔なんだ。と俺は思った。だから辰次郎っていう名前に辰が入ってるんにゃわ、と今初めてそれに気付いたのだった。しかし、辰に似ているから辰次郎とは親は名前をつけるのにあまりに手を抜きすぎていると思って辰次郎が哀れになった。では、その弟の寅三は虎に似ているのかと思って、ふと寅三の顔を見て驚いた。そう思って見ると顔の輪郭といい、目の位置や鼻と口の振り合いが虎のそれと似ていると思えてくるから面白い。じゃあ、弥五郎はヤゴに似ているのかというとこれは全然似ていなかった。どう見てもこの顔から蜻蛉に羽化するというような顔ではなかった。それなら当の本人、この己の顔は熊に似ているのか、と思って熊の顔を思い浮かべてみた。俺はあんなに顔が横に広がって目がまあるくて鼻から口にかけて尖っていない。よかった、俺は熊に似ていたから熊太郎と名付けられたわけやないんやと内心ほっとした。

と、俺はほっとして蒲団の中にいるしらたきに目を向けて愕然とした。そういえば俺はしらたきがただ色が白かったので、しらたきと名前をつけたのであったことを思い出したからである。俺はしらたきに対して御詫びのしようもないことをしてしまったのではないか。何故なら、しらたきというのは、動物でも生きたものでもなく、江戸で呼ばれる蒟蒻状の糸のように細くて白い食べ物のことだからである。俺はなんて名前を自分の拾って育てると決めた娘に付けてしまったのだろうかと呆然となった。しかし、俺は決して、他に何もいい名前が浮かばなかったので、もういい加減に諦めてしらたきでええか、という気持でこれをつけた訳ではない。俺はこの小さい乳呑み児になんて名前をつけようかと思ったとき、真っ先になんでか頭に浮かんだ言葉がしらたきという言葉であって、俺はそれが食べ物の名前であると知っていたが、そのしらたきという言葉を心の中で呼んでみたら、その音色がごっつう心地が良いことを知って、実際声を出して呼んでみた。丸っこい二つの目で俺の顔を何も考えていないような顔で見つめる児に向って俺は呼んだ。しらたき。しらたき。と、とすると、しらたきはなんとなく嬉しそうにしているような気がしたのである。そうか、おまえ、しらたきっちゅう名前気に入ったか、おまえほんま白いしな、ほな決定じゃ、おまえの名前は、しらたきや、ええな、白い滝のように立派に育つんにゃで。とあとから無理やり白滝の意味を入れて俺はしらたきにしらたきとつけたのである。

どうなんやろう。と俺は思った。しらたきは、もしかしてその名前で呼ばれるのがもう嫌で仕方なくて、しかしその名前ではもう呼ぶなと言うとせっかくつけた俺を悲しませると思って、しかし、どうにも苦しいので、旅に出ることにしたのであったら。俺はもっとちゃんとした名前をつけるべきであったのだろうか、と苦渋した。

悩んでいると、ほたえていた弥五郎が煙草盆の角に思い切り肋を打って、いてつつつつ、と言っているのを寅三が大笑いして俺も笑った。

少ししてから、蒲団の隙間からしらたきを覗いてみるとすうすうと眠っていた。起したくなかったし、しらたきと離れたくなかったが、それはしょうことない、しらたきを起すとかなり眠たそうだったので弥五郎にしらたきをおぶらせ「け躓かんよう気ィつけや」と言って、寅三と一緒に家へ送らせた。

三人の後姿を見送っていると、三人は俺の居る場所と全く違う場所へ行ってしまうのではないかという気持になって恐ろしさと寂しさが来て、その後にはとめどない虚しさがやってくるのだった。

家で一人になると、俺はしらたきの体温がまだ残ったあったかい蒲団の中に入った。するとすこし心もあったまってきて、次はいつしらたきに会えるだろうかと思って、その次には辰次郎に一度ちゃんと謝るべきではないかと考えた。どないしょ、松河家に訪ねる、寅三に頼んで辰次郎を連れてきてもらってどこかで会って謝る、どっちがええやろう。そんなことを考えながら知らぬ知らぬま眠りへと落ちていった。


























天の白滝 五十六

 

 行くっつっても、恵方詣りをする神社は辰次郎がしらたきを連れて向かった神社と同じ神社ではないのか。だとするとまた顔を合わすかもしれない。辰次郎とまた顔を合わすのは甚だ心苦しいが、しらたきの姿はもう一度この目で見たい、そう思った俺は寅三に、辰次郎が向かった神社と同じ神社へ俺らは行こうとしているのかを聞いてみた。

「まあ、別の神社もあることにゃあんねけどね、あこの神社が一番本場ちゅうたら本場かな」
「よし、ほな寅ちゃん、われは兄さんに見つからんように俺の後ろ歩いとき」

「へい、兄貴」

「ほんで弥五ちゃん、われは俺のまァ前を歩いてや」

「しゃあけろ兄貴、さいぜんわいの顔見られたやんけ、わいが見つかればわいの後ろィは兄貴がおるとばれたも同じィなれへんけ」

「あ、ほんまやな、ほんまやわ、ほなどないしょ」俺は弥五郎に尤もなことを言われてあぐねっていると寅三が賢そうな顔で妙案を唱えた。

「ほなこないせえへん、わいらは表通りからは行かんで裏の山道を通ってくやんか、ほいで木の陰から辰次郎を探し当てたらええねん、ほしたら辰次郎から見つかる前にわいらは隠れたらええちゅう話しやん」

「ほんまや、それええわ、それで行こ、山道がええわ、山道に賛同や」

そう言って俺と弥五郎と寅三は暗い山道から回り道を経て、辰次郎の在処を突き止めるべく獣道を通って向かった。

獣道がなければおのずとから脇差を抜いて、しゃっ、しゃっ、と豪放磊落と草木を刈りながら進む。なんてなことはせず、酒の尾がまだ引いている男三人はへらへらと、いつつつっ、とか、おわっ、とか、なんやこれ、などと口々に発し、またはひゃっぷんしょいっ、などと豪快なくっしゃみをしながらがさがさごさごさと山道を進んでいった。

 そして表通りから少しかみてとなっている山の斜面木の陰から下を窺ってみたら、そこそこの広さを持った道に人々がごった返しておった。人々は何を考えてこんな寒くて暗い夜の内から人の群聚の中に身をこごめながらも向かうのか、斯く斯くの事情に因り、各々の悲境を嘆いて深刻な思いで祈願しに行こうとしているのか、それとも徒、祭りのような感覚で楽しもうとして古来からまつわる行事に参集しているだけなのか、どちらにしろ哀れな光景である。祭りのように思うのならばもっと楽しそうにしたらいいものを、人々の顔は皆寒さに震え、またなかなか進んでくれないことに腹立ち紛れながら焦燥に充ちているのである。毎年のことなのだから、今年はそんな顔で並ぶのはやめようとは思わないのだろうか。しかしそんな民たちの疲労は俺は知ったこっちゃあない、俺が心配になったのは、こんな中に連れて行かれた人嫌いのしらたきのことを思うと、やりきれない。

俺たちは結構早歩きで歩いたし回り道ではあったが、この混雑の中もう辰次郎としらたきは参って帰ってしまったということはないだろうから、まだ参ってないか、参っていても帰りにまたここを通るときに一目しらたきの姿を目に留めることが出来うるはずである。俺は獲物を探し求める肉食獣のようになって毛が汚なくて黄ばんだような群羊の中から一匹だけ真っ白な羊であるしらたきを探した。

すると俺の右の木から首を伸ばしていた弥五郎が「めったくそやな、わいちょう小便してくるわ」と言って後ろの繁みに行こうとしかけたら寅三も「わいもいてこましたろうかな、熊やんはええか」と言ったので「おう行ってこい、俺はもうちびってもうたさかいええわ」と恥ずかしそうな顔をつくって応えると、寅三と弥五郎は笑いながら二人で小便をしに行った。実のところ俺も小便を我慢していたのだが、俺が用を足している間にもし、しらたきが一番見える場所まで来ていたらと思うと行くに行けず我慢を通すことを決めたのである。弥五郎と寅三に頼んで一人で行くことも出来るが、俺はしらたきの姿を見つけ出す自信が大いにあるのに比して弥五郎と寅三は見つけられないのではないかとうたぐれてしまって任せておけず己に頼るに如くはなしとなって俺は目を血走らせて探した。

すると、どうだろう、見よ!俺の目は真っ白き羊の姿を捉えたのである。すわ、しらたきや、と思った瞬間のことであった。俯いて歩いていたしらたきは顔を上げて俺の立っている地点を刹那、望んだのである。なんで俺がここに立っていることがわかったのだろうか、確かにしらたきの目は俺を一瞬見た。はずである。この幸先のような一事に俺の全身は何かが走りぬけた感覚になった。何か大きなものに走り抜けられたような後の幸運なる心地の中に突っ立っていると、しらたきが俺の見ている中に倒れこんですっと姿を消した。隣にいた辰次郎がしきりに「すえ」と名前を呼んでいる。俺は一目散に下へ斜面を滑りながら降りた。それでしらたきの倒れた場所へ行こうとするのだが人の群れに押されて思いのほか近づくことができない。最初のうちはすんまへん、すんまへん、と謝りながら人の間を無理やり入って行こうとしたが人々は誰一人と足を止めようとせず俺を押しやることしか考えない、俺はそっちがそう来るなら俺もこうすると「どきさらせ」と怒鳴り散らしながら無茶苦茶になって前に進んだ。そうしてなんとかやっとしらたきのところまで来れて俺は身動きがとれずにしらたきを庇うようにして座り込みながら閉口してしまっている辰次郎に向かって「大丈夫かっ」と叫んだ。俺は「城戸はん」と驚いている辰次郎の手から即座しらたきを抱きかかえて思った、どうにか道の端まで行って、そこから危険であるが致し方ない、斜面を上がって行くしかこの狂った猪のように猪突猛進してくる人波から避難することはできない。俺は自分の背中を後ろに向けてどかどかと押されながら端っこに行こうとした、その時である。ものすごい故意の力で責めてくるおっさんにどんとぶつかられて俺は人波も押し退けて打っ倒れた。幸い横倒しに打っ倒れたのでしらたきは無事であった。おかげで道の端まで一気に来られたが、俺はもしこれが横倒しに倒れずしらたきが飛んでって頭を石畳にぶつけるなどしてしらたきが大怪我を負っていたらと思うと、殺意に駆られた俺はしらたきを安全な土の斜面に寝かせ親父に向かって「われ、待たんかい」と怒鳴ってその親父を打ん殴ろうと親父の肩を思い切り掴んで振り向かせようとしたその時であった、辰次郎が物凄い手捷さで俺の腕をぐっと掴んでこれを止めさせた。そして静まった荘厳な顔つきで「城戸はん、暴力はあかん」と言った。しかし先に暴力を行ったのはこの親父であり、否、親父だけでない、ここにいる人間全員が暴力であり、もしこの場に俺がいなかったら一体どうなっていたのか、しらたきは人々の無愧なる暴力によって殺されていたのかも知れんのだ、おまえはしらたきが別に死んでも良いと思っているからそんなことが言えるのではないのか、そもそも人が嫌いなしらたきをこんな場所へ連れてきたのはおまえである、おまえがここへしらたきを連れてこなければこんな目にしらたきは合わずとも済んだのだ。俺は何の反省もなく立ち去ろうとする親父よりも目の前に立っている辰次郎のほうに憤恨が移って抑えきれなくなり辰次郎の頬をぶん殴った。しかし殴りつけるまでの瞬間この男はしらたきの命の恩人であることを思い出し、力は大分と緩んだ。それなのに辰次郎は少しく大袈裟ではないのかと思うほど飛んで行った。辰次郎の体が飛んできて将棋倒しのように幾人かが倒れ込んだ。俺は、やってしまった、という気持を抱えるも、しらたきのそばにおりながらしらたきを守れなかった辰次郎の弱さを憎み、俺は振り返って倒れたままのしらたきをおぶると斜面を上った。

しらたきが無事でよかった。しらたきが無事でよかった。しらたきが無事で、ほんまによかった。俺はそのことだけを考えるようにして、しらたきを連れて家に帰った。

家に帰って蒲団を敷いてそこにしらたきを寝かせると、しらたきは目を覚ました。

「気分わるないか」と聞くと「うん」と応え「なんでぼくここにおんのん」と言った。
「おまえ神社参る途中でぶったおれてもうたんや、ほんで俺がおぶって連れ帰ってきたんやで」

「ふーん」

「おまえ人が大嫌いやのにあない仰山おる中歩いて気ィ失ったんちゃうか」

「そうかしれん」

「もうあないな場所は行かんこっちゃで、行きたないてはっきしゆえばええんにゃ、わあたか」

「うん、けろ、行きたいてぼくがゆうたねん」

「ほんまか」

「うん」

「そうか、またなんで、まあええか、もうこりたやろう、もう行かんときや」

「うん」

しらたきは半分蒲団で顔を隠すようにしてそう言った。辰次郎から無理に恵方詣りへしらたきを誘った訳でなかったことを知り、苦々しい場所へ一瞬追いやられたが、それにつけてもこのひととき。幸せの森。そんな言葉がふと浮かんだ。俺はしらたきさえそばにおってくれたら本当に幸せでしかたないんや、なんであの頃はそれがわからんかったんやろう。しらたきを邪魔に思ったことなど一度とてないが、しらたきがいつもおることはもう決定付けられていると思い込んでいた為そのことを幸福とは思わなかったのだろうか。

あっ、と、そうや、この前にしらたきが言いかけてごっつう気になっていた続きの言葉、これ聞かな、と思い出した俺は前に夜道で別れる前にしらたきが言った「ぼくのじんせいないような」という言葉の続きをしらたきに聞いた。

「しらたき、おまえなんかこの前ゆいかけてたことあったやん、なんかぼくのじんせいがなんちゃらかんちゃらとか、あれ、なんてゆおうとしとったんにゃ」
「そんなんゆうたっけ、ぼく」

「おお、ゆうてたで、ちいちゃい声でな、最後に、覚えとらんのか」

「おもいだした、ぼくのじんせいないようなも」

するとその時戸が勢いよくガララッと開いて「おー兄貴ぃ、おおぅ、おおしらたきや、しらたきがおるぅ」と弥五郎がまずでっかい声でゆうて、それをさらに上回るでっかい声で寅三が「あらららららぁ、しらたきちゃん、ははは、ここにおったんですかい、熊やん、やられたね、やられたねぇ」などとふざけてやかましく騒ぐので、しらたきの言葉がまた聞こえなかった。もう、いや。と思ったけど、俺は苦笑しながら「やかましいの帰ってきてもた」としらたきに言うと、しらたきは蒲団の中に顔をひょこっと隠した。

「ちょうやっかましい、しらたきが寝とるさかい」と俺が言うと、二人は顔を見合して片手を顔の前に立てて御免の素振をしながらへこへことそおっと居間に上がってきた。

「また飲んで来たんか」と俺が二人に聞くと二人は、ッヘェ、そうっす、みたいな頭を掻いて恥ずかし乍らという仕草と顔をした。

「いや、しゃべったらあかんゆうてへんがな」と笑いながら俺が言うと寅三が声を出した。

「わいらもっぺん飲んでこよかいな、なあ弥五さん」と言うに弥五が「いや、もうわいはええわ、われ一人で飲んでこいや」と応えるといかにも寅三が、おっまえ、あほ、あっほやなおまえ、という顔で気ィ利かさんかいと顔で言っているのがわかり俺は「はは、だんないがな、もうちょいしたら、しらたき寅三ィ連れ帰てもらわんならんさかいな」と言った。

「熊やん、安心しぃ、わいが責任の限りを尽くしてしらたきちゃんを送ったるさけ、あ、ほな酒と宛て、酒と宛てを持てこよかいね」
「弥五郎、おまえも一緒ィ送ってってくれるけ」

「兄貴、任しとけ、こいつあてならんわ」

「兄貴、任しとき、こいつあてなるわ」

「また掛け合いか」

まあ年も同じとあって、二人は余程気が合うことだ。それで思い出したが、辰次郎は俺より若いと思っていたが俺と同年であるらしい。辰次郎が今どのような思いでいるのか、俺にはまったく推し量ることさえ出来ないのであった。辰次郎は多分俺と何一つ似通った部分が存在しない人間である。


























天の白滝 五十五

 

そう思って寂しくもなるが、年が明けたからだろうか、寂しいだけで終わらることもない、今年は昨年と違いしらたきともっと会える機に恵まれるやもしれん、そしていつしかしらたきは俺のことを完全に思い出し、これまでのように共に暮らせる日が来るかもしれんし、と年明け早々小心でいてしまっては来るものも来なくなってしまうしと思って、そんなことを思いながら俺を慕い続けてくれる男弥五郎と酒を飲んでいると、寅三がやってきた。

戸を開けるなり寅三は「あけましたかな」と聞いたので、俺が「開いとるよ」と応えたら「あー、それはよかった、あいたィ開いたらば会いたいわぁって思っててんか、てああ、もうあいてたんか、ははは、年明いてたんやね、はは、ってあれ、弥五はんやな?なあんで弥五はんがここにおんね、ヤゴゆうたら田んぼにおったけどなぁ、あっれぇおっかしいなぁ」という寅三を見て「もう寅三はできあがっとるな」とぼそっと弥五郎は言って「ほな、あれか、寅はそこやね、どこや、虎はどこやね」と土間によらっと立っている寅三に向かい合って聞くとそれに寅三が応える。

「寅は印度にいんど」
「ほな印度にいんどれや、寅」

「嫌です、わたくしはここにいたいのです、そしてみなさんで酒を飲みたかったのです」

「おお、寅ちゃんも酒買うてきてくれたんけ、おきにおおきに、せやたらはよ上がってきて飲もぅや」

「うん、いまに上がってくるよ」

そう言うなり上がってきた寅三は一升瓶を床に置き「開けましてっと」と云いながら栓を抜いて俺と弥五郎と自分の湯呑に「おー」と言いつつ注ぐと「めでとうさん」と湯呑を三人で合わして飲んだ。寅三の酒も負けじと劣らず美味い。

湯呑一杯の酒を飲み干すと弥五が徐に「どないする、これから恵方詣りにでもいてこますけ」と聞いてきた。それに寅三が寝そべりながら、吸っていた煙管の雁首で煙草盆の縁をカンッと叩いて、煙管の吸い口を弥五郎に向けてうん、と肯き「ええね」と応えた。煙管を寅三から受け取って旨そうに呑むと弥五郎は「兄貴、どや」とまた聞いた。俺はそれに考え込む姿勢をとり「うーん、まあなぁ、俺実はな、ぶっちゃけてゆうてしもたほうがええな」と勿体をつけてから言った。

「俺はね、先ィ風呂へ参りたいなぁて思うねんね、垢が七分ほど積とるさかいな」「ほな、風呂ィ参ろう、でそのままの格好で恵方詣たらええんちゃう」と寅三が笑いながら言う。「素っ裸で神さんに詣るんか」
「いひゃひゃ、そう、熊やんだけな」

「ははは、兄貴それがええわ、まあ褌だけはしていきぃな」

「いやいや、さぶいやん、てそれ以外に問題が大事あるやん」

「ないない、熊やんにはないて、ひゃひゃひゃひゃ」と寅三がおちょくる。そうしてふざけながら三人でまずは風呂屋へと出向くと、風呂屋は空いていた。三人で入るには大分と狭いが、誰一人この寒さの中外で待ちたがらず、無理に三人で入りこました。温かい湯に浸かっていると心地が良いあまりに俺はしらたきのことばかり考えてしまうのだった。そんな中俺は変なことが気に掛かった。心がのぼせているため何一つ躊躇せず途端寅三に尋ねた。

「なあ寅ちゃん」

「うん?」と足の垢を熱心に擦りながら寅三は俺を見た。

「いやな、年が明けた瞬間、しらたきは一体誰の顔を最初に見たんかなあて思てね」

「きひひ、うーんそやなぁ、ちょう思い出すさかい待っててや」

俺は寅三の顔に目を凝らして返事を待った。

 その時、弥五郎が「わいも入ってええか」と言い狭い湯船に入ってきた。「そんなご無体な」と言うに弥五郎は出て行ってくれないので俺は足だけを浸けて湯桁に腰を掛けた。寅三が急に声を上げた。

「あっ」

「なんや」と俺が聞くと寅三は半笑いで「あーそうそうそう、確かね、あっちの方角やろ、あーあーうん、間違いあらひん」

「なんが間違いあらひんね」

「熊やんの家の方角見とったわ、確か、しらたきちゃん」

「ほんま、ほんまに、ほんまか」と俺は声が弾むまえに幸福感で満たされて低い声で何度かそう確かめた。酷く曖昧模糊たる寅三の記憶に俺は満足してしまったのである。阿呆やん、阿呆やん、完璧て自分でも思ったが、それは俺の体の表面をなげえこと蔓延らせしめていた垢が散り散りとなって俺から飛び離れていきよった、ことで俺を同時にせしめていた虚勢なるものも程なくしてチリヂリ、と啼いて湯に溶けていったのだろうか。知らんけれども。

 身を清め終わると三人は風呂屋を出た。出た時の体に当たる寒風の寒いの寒くないの、って寒かったから、ああこれは湯冷めをするなと思って湯冷め三昧で恵方詣りとなる。まあ正月のっけから風邪でぶっ倒れてしまうのも面白いのかもしれない、弥五と寅三は気にしない風だから俺も気にせず向かうが、俺は歩きながら風呂から上がったときによく、ゆじゃめ、ゆじゃめとしらたきと走りまわしながら言っていたことを思い出して懐かしくなる。

 それはそうと風呂屋から出たら寅三が手拭を鼻の下で結んだ盗人被りをして歩いているから「それはいったいなんの真似やね」と聞いたら「ふふん、わいは今から義賊になんねんてゆうのんは嘘やでん」と言うから「やねん、とやでが一緒なったあるね」と云うと「そう、一緒んなたさかいわいはもうこうする」と言いこんだは鼻から下を全部覆った鉄火被りをした。弥五がそれに「もうそうなったらこれをこうしたらええんちゃうけ」と手拭を寅三の目の部分に巻いて後ろで結んだ。

「あれ、暗いなあ、おかしいなあ」と言いながらふらふらして歩いているのを後ろから見て俺と弥五郎はかははと笑っていたら、後ろのほうから突然「城戸はんやないですか」と声を掛けられて、俺はびっくうっとした。あ、この声はまさか、と思ってたじろぎながら振り返ってみれば、そこにはなんとも華やかな晴着を着せてもらってきょとんとした顔のしらたきがおった、とその隣には壮健に恭しくも泬寥ほとばしったというようなあの辰次郎が立っていたので俺は驚いた。そしてその周りにも誰か松河の者がおるかと見渡したが、誰もいてなかったことに俺の少しく上がって来ようとしていた内海域が一瞬にして退潮みたいな感じになった。て、ことは、この二人は、二人で恵方詣りに向かおうとしているのか、もう既に参った帰りなのか、二人で、何で二人で、また、と俺は情けないほどに銷魂して、辰次郎の存在に圧せられて倒れ臥す心境になった。

「ああ、やっぱり城戸はんでひたか、いやぁ、お久しゅうございました、お元気でいはられましたか」と気取りなく声を掛けてくる辰次郎に俺は息を詰まらせるようにして応えた。

「やあや、ああこれはこれは、辰次郎はんやおまへんか、久しいもんでんな、いやあ、わいは元気でおりまんなあ、ははは」

「そりゃあよろしいことです、あ、もしかして城戸はんもこれから恵方詣りへ行きなさるか」

「あ、ぅいやぁ、そうでもないでんねん、まあ新年の中をぶらぶらとしておったんでふわ」

「左様でしたか、ほなお邪魔となってはいけませんね、うちらはこれから詣りに行くところなんです、ではまたお会いしましょう」

「へえ、さいでんな、ほなまた」と俺が返すと辰次郎は俺と弥五郎、後ろのほうにいる誰なのか分からない変な男に向かって会釈するとしらたきの手を優しく引いて通り過ぎて行った。しらたきはどうしてかずっと俯いていたので、目を合わす閑もなかった。突如投げられた投網に捕まって惘然となっている魚のようになった俺に海にいる仲間が呼びかけた。

「兄貴、誰やねんあの男、しらたきの手ェ握っとったど」しらたきの手を握っとったど、しらたきの、手を握っていた、握っていた、俺のしらたきの手を、と頭で復誦しているとやがて漁師の手が俺の体を握って捌くかとするから、俺は弥五郎と言う弟魚に応える。

「うん、あの人はな、寅三の兄でな、辰次郎っちゅう人やで」俺は必死に頭の中で身悶えた。捌かれたくない、何故なら捌く漁師の顔が辰次郎に思えてしまうからで、俺は海へ戻りたい、帰りたい、しかし待てよ、しらたきがいるのはどこや、海か、それとも、この漁師の家か、漁師の別の網の中だったらばどないする、俺は助けに行かんければならん!と俺は俎板の上の鯉から化して、なにになるのがええのかと思った俺は何故か俎板に乗った鰤が浮かんだ、ただ少し大きくなったというだけで、これでは捌かれるに違いない。

「ほおー、寅三の兄貴か、寅三も兄貴分おったんやな」という弟魚にずっと後ろを向いておった寅三という魚が来て「ちゃうがな、わいのほんまの兄貴やちゅうねん」「なんや、そうなんけ」と興味ないような弥五魚。やごうお。

「ああー、ばれんでよかたわ、ばれたらええことないさかいの」

「なんでばれたらええことないねん」

「いやあ、なんでてわいと熊やんが連んでんのんうちのもんィ見つかたら親が口喧しいなるんわあってるんや」

「しゃあから手拭かぶて顔隠しとったんけ」

「そうでんがな、弥五ちゃんさすが話しわかる男や」

「まあなんでもええけろも、兄貴がさきからちょうおかしないけ、なんやぶつぶつゆうとる」

「うん、熊やんおかしなったな」

弥五郎と寅三が話している間に俺はいくら考えてもええ魚になれんかった。俎板にのった太刀魚、俎板にのった笠子、俎板にのった昆布、若芽、俎板にのった鉄鎚、俎板にのった黒豆、俎板にのった元徳、後醍醐天皇、俎板にのった活力、俎板にのったらてんてこ舞い、俎板に乗った普遍。だんだんと変なものが俎板の上にのるので、もう俺は疲れ切ってしまった。俺は漁師が他の僚船に呼ばれて顔を上げるを見計らってぺちぃっと飛んでちゃつぽんと海へなんとか掻い潜ること成功。仲間のいる海へ戻ってこれた、夜の海、暗くさぶいのだけれども。

「さっ、ほな行きまひょか」となんでもない振りをして、道を進んだ。「おうっ」と寅三と弥五郎が地面を蹴る音はまるで韻を踏むように響く。

おれのぢごくに、冬篭り、という言葉が何故か浮かんだ。まったく韻を踏んでいない。

天体の出没を、地獄にて待つ。というのも踏まない。待ちて。金の松が殪れる方角を踏んではならぬ。踏んで待つ。待つ河。俺は踏んでいる方角を危ぶんだ。



























天の白滝 五十四

 

自失したようになって日を過ごしてゆき、気づけば、もう一年の最後の日、大晦日となっていて、一年が経つのは早いなあ、とか、一年あっちゅうまやね、とか人々はよく言うけれども、俺はこの一年というものを振り返ってみると、一年前、というのがものすごい昔のことのように思える。この一年確かにいろいろあった。いろいろあったので長く感じるのか、というとそうでもないと思う。のは何故か。それは俺は時間というものがよくわからなくなってしまっているからである。時間を感じることが難しくなっている、のはいつからかというと家族をこの手で殺めた日からで、ずっとそんな感覚で生きてきたが、それもしらたきを拾ってからは何か違う感覚へと変わってきたように思える。若干、時間が過ぎていくこと、季節が代わる代わる訪れることを少しは身近に感ぜられて来たようだ。しかしそれでも完全には戻ってきていない。そんなだから一年が過ぎたなあ、となってもそれは俺以外の場所で起こっているように思えて、俺の中ではあの日から時間が同じところに存在していて、その止まった時間の俺の世界にしらたきはばまりこんで来てくれたような気がするのである。決して、俺からしらたきのいる正常な時間の中に、入り込めた訳ではない。しらたきからきっとやってきてくれた、俺のところに、俺はそう思っているのだが。しらたきは、そんな世界はやっぱり嫌だから俺の世界を離れていってしまったのかもしれない。時間が正常に流れてくれないことは人間にとって苦しいことだからだ。その苦しみをしらたきは感ずる日々を俺の傍らで過ごしていたのかと思うと、可哀想でならない。これでよかったのではないか、しらたきは俺の側を離れることができてよかったのではないだろうか。俺と過ごすだけの世界よりも、俺なんかのことを忘れてしまった今の世界のほうがずっとしらたきにとって幸せじゃないのか。もし、俺が親なら、しらたきの親なら、しらたきと二人で暮らせることばかり願うのはおかしい、子はいずれと親のそばを離れ巣立って行くのが至当であって、子がいつまで経てども親の元を離れないと親は子の生い先が心配で心配で俺が死んだ後、こいつはどうなってしまうのかと夜も眠れないてなことになるのが至極当然だが、俺はそうゆう親としての気持も勿論ある。俺が死んだ後にしらたきが変な奴にそそなかされたりしてみいな、俺は彼の世からでもそいつをぶん殴りに行きたい想いである。しらたきと離れることが考えられん、今現に離れている。

そんなことを考えながらも漠然となって、腹が減りすぎてぐぎゅうと締め付けられる。もう後数時間で年が明ける。俺は何をすればいいのかと思ったが、そう言えば長らく風呂屋に行っていない気がしたので、そうだ風呂屋にでもいてこませばええのかと思い、のそのそと動き出して外へ出た。

除夕に何をすればええのかわからないというのは悲しいことだなぁと思うが、そんなものはどうでもええ悲しみであって、それどころやないんや俺は、と思いながらもやはり風呂に入って身を清めて年を越したいと思っている俺は小さいと思われそうだが、それは違う、俺は何をすればええのかわからなかったから風呂屋に行こうと思っただけであって平俗の慣わしと一緒にせんでくれ、そう思った俺が風呂屋へ着いて、さぶいからはようあったまりたいなぁって風呂屋を見るともんのぎょうさん人々が前に列伍しておった。くわあ、ごっついことならんどるわ、みんな考えることはおんなしやな、身を清めたら一年の厄は落とされると本当に思っておるのか、落としたところですぐつくがな、阿呆やな、ははは、と心で笑ったが風呂屋にすぐに入れないことはものすごい残念になった俺は、並ぶのは嫌なので、どないしょうと思って、蕎麦でも作るか、それとも食いに行くかと悩んだ。ああ、俺は小さい人間やなぁ、蕎麦を食ったところでしゃあないのんに、でもさぶすぎるから体をあっためたいと思いふらふらと蕎麦を探して歩いた。しかしやっと見つけた蕎麦を食わしてもらえそうな店を覗いても大入り満員と、またここでも待たなくてはならんのかと思い、待つのは俺は嫌だからと、結句もう蕎麦なんか食わんでええわ、酒がありゃあわしはええんじゃ、阿呆ン鱈と投槍になり暗くて寒い住家へ戻ろうとした。が、俺は引き返して今し方通り過ぎた神社に二年参りをしようと突として考えが変転し神社へ行った。まだ時間が少し早いからか人は誰もいてなかった。

厳粛成る神域に入り神殿の前で俺は手を合わせて目を瞑った。目を瞑って手を合わせるだけで終えた。

何かが次々と奪われてゆくような気がした。何故神社へ来てそんな思いにとらわれるのかわからない。悲しいことであったが俺は自分の足というものを持たんければならん、どうゆうことか。しらたきを諦めろと神は言っているのか。俺は神殿の暗闇の奥を凝視すると「諦めません」と声に出してはっきりと誓った。

今夜も酒飲んだ暮れて寝よう、とそう決めて住家に着いて戸を開けたら、土間で竈の前を行ったり来たりしている弥五郎がおった。

俺の顔を見るなり「おおー兄貴ぃ、おかえりぃ」と嬉しそうな顔を向ける弥五に近づいて「弥五おまえ来とったんかいな」と返し、それならもっとはよ帰ってきたのにと俺は弥五と顔を合わし、でも嬉しいなという気持が込み上げてきて「弥五、おまえなんしてんや」と聞いた。

「決まっとるやん、蕎麦作てんがな」
「おお、蕎麦か、ほなわしも手伝うわ」とゆうて袂をまくり上げて弥五が買ってきたものを見ると芝海老が入ってあった「お、芝海老やん、海老天蕎麦やね」と言って海老の下拵えにかかった。

海老の殻を剥きながら俺は楽しい気分になってきて思ったことが全部口からこぼれていった。

「しかし来てくれておおきにな、蕎麦食いに行こかおもたんやけろもどこも一杯でな、もう酒飲んで寝たろかおもてたんにゃ、あ、しゃあけろわれこんな日はあれちゃうん、照と一緒におったほうがええんちゃうんか」そう言って蕎麦を湯掻いている弥五郎の顔を見ると一瞬寂しげな表情になって「ああ、照は今日は馴染客の相手するんやて、わいずっと前から約しとってんけろな、ってそんな話はもうええねん、はは、それより来てよかたで、兄貴ひとりィさすほうがわい嫌やさかい」と明るく言うので「そうか、俺はひとりでも屁の河童やゆうたら、まあ嘘や思う?」となんでか弥五郎に問うてしまった。
「はは、嘘やな」

そう言われて俺はほーっうという顔をして「おほほん」と笑って海老に衣をつけた。

そうやって二人して年越蕎麦を作っていると出来上がる前に除夜の鐘が鳴り響いた。

ぼおーん、ぼおーん、ぼおーんと鳴る鐘の音を聞いて「ほほ、間に合わんかたな、まあええか」と弥五郎がいうに応える。

「はは、年明けたな、あけまっておめっとさん」
「兄貴あけまっておめっとおさん」

そうして出来上がった年越蕎麦を二人で食らった。

弥五郎は「ええ酒買うてきたで」と買ってきたという酒を持ってきて俺の湯呑に注いだ。

俺も弥五郎の湯呑に注いで湯呑をあわし新年になった夜が深まる中に二人で飲んだ。

美味かった。一人で飲んだ酒とは比べ物にならんくらいに美味い酒であった。俺はまだしらたきと一緒に酒を飲んだことがない。あ、あったわ、そういえば、いつの正月やったかな、しらたきが俺が酒をあまりに美味そうに飲んでいるので「ぼくもそれ飲んでみたい」ゆうからちょびっとだけ飲ましてやったらば、しらたきはあいつはどこかおかしいのだろうか、飲んだ瞬間に確か、茶碗は引っ繰り返すわ、漬物を壁に投げつけるわ、俺の頬を痛いとゆうてるのにびいーって何度も引張ったりして変になってしまったからもうそれからは飲まさないようにしていたのである。小さい童子に酒を飲ますとあんなことになるのだろうか。しかししらたきはどういう訳か成年となった。しらたきどないしてるかなぁ。初めて別々に離れて違う場所で年を越した。



























天の白滝 五十三

 

 気が付けば、朝か午が来ていた。喪失の朝だ。喪失感が一定を越えたとき、次の朝に必ず訪れるとんでもない朝で、悲しみが大きすぎるため、この日常当たり前に起こる現象さえも受容することを脳が拒絶する、朝がやってきたことが堪らなく残酷なことに感ずる感覚の中に打ち拉ぐことしかできない絶望なる朝。今までに何度か味わったことのある感覚で、それは決まって朝起きた時に襲われる。一度目の朝は、家族を殺した次の朝だった、二度目の朝は、しらたきが忽然といなくなった日の次の朝、しらたきが旅に出た日の次の朝も若干あったような気がするがそれよりしらたきを探すことに只管であったから直に立ち直ることができたのだろう。

全身が不快物の塊に貪られているようだ。蒲団を見ると蒲団が惨澹なことになっていた。寝ながら嘔吐したようだ。甚だしい吐き気がする。俺は口を押さえながら裸足で外へ駆け出した。

 戸を開けた瞬間、何もかも真っ白だった。外にあるあらゆる像の上に白いものが積もっている。雪原、そう思った瞬間俺は白銀の上に吐した。ほとんど胃液で血の混じった血反吐であった。吐きすぎてまた咽を切ってしまったのかもしれない。心が悲しみで飽和した俺は雪を見ても何も感じることができなかった。しかし白い雪上に俺の汚い反吐が乗っかっている事は、俺に著しい憎悪を起こさせ、俺は横から雪を掻き集めて来ると吐瀉の上に乗せてそれを隠した。隠したところで雪の下には俺の血反吐がある、それが居た堪れなかった。しかし全身中がおもぐるしく痛かったので、そのままにした。いったい昨日何をしたのか俺は、記憶が完全にぶっ飛んでしまっている。今日は一日安静にしておくしかない。俺は水をがぶがぶ飲むとぐたっと蒲団に横になろうとして、やっぱり思い直して、気持ち悪さと鈍痛と絶望感の厳しい中濡らした手拭で反吐を拭って洗うと、ばたっと倒れるようにして寝込んだ。

 といっても寝られない、こんな中眠れないのは本当に苦しい。

寝られないでいると何も映らない景色が一瞬見えた。その景色を見ている俺ってなんなんやろうと思った。人は何から始まり、何で終わろうとするのか。遠くに篝火みたいなのが見える。けどそれ以外が全部闇で、そんな場所でも人は生きてゆけるのか。その篝火はいつまで経てども篝火のまま、どんなにその小さい灯に向かって歩いても走っても届かない、それとも走ればなんなく届いてしまったが、篝火の側から辺りを見廻した時、周りは真っ暗闇、どちらがええと思う、篝火がなんなのかによってそれは意味が多分と変わってくる、篝火は何か解らない得体の知れないものなのか、それとも人がその光ひとつ知るならどんなに不幸でも生きてゆくことができる光なのか、それがわかればええ、それだけがわあれば。

 俺が手にしたものは、信じられないほどの明光だった。俺にそれまで与えられていた宿命、孤独、堕落、暴力、絶望、虚無、罪、それらはどのようにして暗転してゆくのか、神に試されていたのかもしれない。

 俺は明光を手にした、透かさず手にしていた、飢え切った猿がきしきしっと鳴いて我のもんじゃいと叫びながら目にも留まらぬ速さで人の手から葡萄の実を盗み取るように、俺は気付や、この腕の中に嬰児のしらたきを抱いてあやしていた。

 それから少しずつ、俺の中にとめどもなく流れていた滂沱たる赤黒い血が時にあやすくらいにまでなったことは確かである。それが、やがて止まるかもしれないと俺は思っていた。阿呆すぎる。しらたきはいつまでも俺の側にいてくれると何処かで思っていたのだ。

 畳の上に置かれていた一升瓶が目に入った。昨日、俺がしたこと、話したことを思い出した。

白い坂を滑ってゆこうとする。一度滑ったらもう止まらないだろう、何故ならその坂は雪の坂であるから。止まろうにも止まれない。その坂を滑っていったらどこへ行くのか、しらたきとはぐんぐん離れて行ってしまうのだろう。昨夜、俺はその坂の頂上に立ったような気がする。俺の背部には何があるのか、それはわからないけれども。わかるのは、俺が破壊してしまったものは、おっさんの前歯二本でもなく、丸太ン棒を持っていた男の肩甲骨でもない、俺が破壊したもの、それは俺の未来。俺の時間、俺としらたきの時間、それが木に激突した雪兎のように粉々に砕け散って元通りにすることが不可能となった。気がしてしまう。しらたきは俺ではなく、松河絹と松河源次郎を選んだ。しらたきは俺の娘ではなくなって、松河家の娘になった。もう俺のところへは帰ってこない。

吐気がまた上がってきたがもう吐きたくないと思い唾を飲み込むと吐気がしずまるような気がして唾を沢山飲んだ。そうして少しの眠りに入った。

家族みんなで御膳囲んで楽しそうに飯食っている。俺は成人していて、しらたきがそこにおる。ちびっこいしらたきがおる。みんなで何がそんなに楽しいんだろうか、みんなで飯を食うだけのことがなんでこんなに楽しいんだろうか。おかしいなぁと思いながら俺も笑っている。しらたきも嬉しそうにけらけらと笑っていて、俺の親父がそんなしらたきを抱っこして膝に乗せる。孫の顔を見せることができてよかった、と俺はほっとしている。間に合ってよかったと思って心からほっとしている。

目を開けたら真っ暗だった。目から熱いものがいきなり溢れてきて次々に耳の中に入ってくる。耳が満水となっても俺は横を向くことも出来なかった。俺はやっと横を向くと子供のように咽びながら声を出して泣いた。

その時戸をガラっと引く音が聞こえて「熊やん?」と寅三が入ってきた。俺は吐気はなくなったが鈍い痛みは変わらない体を起こすと行灯に火を点した。

「熊やん寝とったん」と居間に上がってきた寅三に向かって「うむ、昨晩ちょう飲みすぎてもうてな」と洟を啜りながら応えると「そうなんか、外えらいどか雪やで」と言いながら寅三が俺の顔を近くで見ると驚いた顔をして言った。
「熊やん、その顔どないしたん」

「ん、なに」と俺はとぼけた振りをした。

「ごっついこと腫れとるがな」

「うん、ちょっとな、酔って猿らと遣り合ってもうて」

「山におるあの猿?」

「そうや、てちゃうよ、博奕場におる猿」

「ほんまか、うわぁ、痛そうやなぁ」と寅三は俺の顔を嘗めるようにして見るから俺は「うん、痛いけろまあ大丈夫や」と言いながら顔を逸らすようにして火鉢に火を熾していると寅三が懇ろに聞いた。

「熊やん、なんかあったんか」

寅三は普段はへらへらとしておる男だが、人のことを良く見ているというか洞察力に長けているところがある、とそういえば昨日の寅三も俺を見て心配そうな顔をしていたし、俺の変化を素早く感ずいて心配してくれていたのか、と俺は少しく慰められる気持ちになった。しかし俺はそんな親身になってくれる寅三に対し本当のことを話すことをとつおいつ躊躇った。俺は決してしらたきとまた一緒に暮らすという望みを完全に諦めた訳ではない、だが俺の今日のこの底なしのような喪失感と絶望感は俺が諦めたということを裏付けているとしたら、俺の中に甘受されたとされているであろう事が俺以外の者にそれを話すことによって俺の中だけで行われていた諦念甘受されたしという判を押されたような観念が俺以外の者によって象徴されたる事になってしまいそうな気がして俺は話すことが出来なかったのである。

俺は返事をまっている寅三に向かって言った。

「いや、なんもあらひんねけろ、ただこの師走っちゅう時期がなんや追い込まれてくるような感じしてしんどくなてまうねんな」
「そないか、それやったらええねんけどさあ、熊やんてなんや一人でもんのすごい抱え込んでるんちゃうかおもてな心配になってね」

「そんなこともないねんけろな、すまんな、いらん心配かけてもうて」

「ええてええて、そのうちわいもごっついな心配さしたるさかいゆうてな、ははは」
  「ははは、ほな頼むわ」と俺はいつか途轍もない心配をさせてもらうことを寅三に頼んで、今日は俺もう酒飲まれんで呑み屋行けんですまんと謝ると、んなんええがな、しんどいならほなまた寝とくかと聞かれ、一人は辛いと思ったので、なんか部屋で遊ばへんとなって、ほなまた賭け事を、つって乗せられて賭碁をすることになり今次は俺が大いに負けて、次は勝ったんでと言いながら顔では笑っているが、胸はずっと苦しくて心の中は塵色の雲と地の間が五尺ほどしかない雪砂漠のような場所に俺一人ぽつんと立たされて、胸から上がこの世にない、という気味の中に、在って。

 


























天の白滝 五十二

 

 しらたきをずっと抱っこしていると全身にしびれがきだしたが、それでも下ろすのは嫌だからとその体勢を保っていると、一眠りした、という顔でしらたきが目を覚ました。俺は慌てて顔を逸らした。泣き腫らした目をしらたきに見せてはならない、どないしょうと思い、しゃあないと俺は水辺から上がってきたイヌのようにぶんぶんと頭を振って、むさ苦しい前髪を前に垂らし赤い目を見えづらくした。

 「よう寝てたな」と言うとしらたきは「うん」と言って「ぼくもう帰らんといかん」と体を起こし俺の膝から退いたので俺としらたきとの間に空隙が出来てしまった。それだけのことで俺はたまらない苦しみを覚えた。

 「ほな送ったるさかい、帰ろか」と俺は立ち上がって丹前をしらたきに着せて戸を開けようとしたとき、しらたきが「くし」というので俺は花櫛を持ってきてしらたきに渡した。しらたきはそれを大事そうに着物の襟の中へ仕舞った。しらたきにこうして何か買ってきてやるというのは俺はあまりしたことがこれまでなかった。しらたきは珍しく何か買うてきてやったら物凄く喜んで大切そうにしてくれる。それを不憫に思うこともあったが、なんでもかんでも与える養育を俺はしてこなかった。それは俺が親父がたまに買うてきてくれた俺への玩具などがたいそう嬉しかった記憶が残っているからである。子供の俺は感じた、収入の少ない親父が切り詰めた銭で買うてきてくれた玩具はいかにも安そうな玩具であったが、その価値はどんな高い玩具よりあると、心の底から嬉しかったし、飽きてほったらかすようなこともなくずっと大事に扱ったものだ。しらたきにもその喜びをわかってほしかった。だから俺は滅多に物を買うてきてやることはなかった。だから着物とかでも、全部近隣でもらったお古などを着せていた。しらたきは文句のひとつも言わなかった。それが今ではどうだろうか、きっと富祐な松河家では、これがいいわ、やっぱりこれなんかどうかしら、などとまるで人形のようにあれやこれやと照合されてはまた別のものをとっかえひっかえ着せられているのではなかろうか。それではしらたきが可哀想である、それに物の値打ちというものが分からなくなってしまう。

 そんなことを考えながら、俺はしらたきと夜の野道を歩いていた。

「星がいっこも出とらんなぁ、あいたは雨かもな」

「雪は降らんのん」

「さぶすぎたら雪が降るなぁ」

「さぶいと雨が雪なるんはなんでや」

「なんでやろなぁ、あれちゃうか、人もさぶすぎるとさぶすぎて動きたないって思うやろ」

「うん」

「しゃあから、雨も同じで、さぶすぎてもう俺たち動きたくありませんて思って、ほんで固まって雪になってまうんちゃうかな」

「ふーん」

「たぶんそうとちゃうかなぁ」と俺はこの同じ話をしらたきが小さいときにしたような気がしたが、しらたきは俺から教わったこともすべて忘れてしまったのだろうか。

俺としらたきの吐く息が白く目に見えて、それはまるで俺の魂としらたきの魂が口から外に出て魂同士で喋ってるみたいな状景が浮かんだ。代わりに冬の夜気が口の中へ入って来て体内にじんわりと浸透してゆく。

「しらたきさぶないか」

「これ、あたかい」しらたきはそうはゆうが、変にさむがりだったから、きっと手足はかじかんでしまっているに違いない、と俺は心配してしらたきの手を握ろうとした。しかし俺の左少し後ろを歩くしらたきのほうへ差し出した手をすぐに引込めてしまった。て、これじゃ前に見た夢のまったく同じではないか。しらたきの手を握りたい、握ってあっためてやりたいと思うのに、なのに握ることができない、なんでなのだろう、悲しい。するとしらたきがか細い空気の中にさらわれて今にも消え入りそうな声で呟いた。

「ぼくのじんせい、ないような」といいかけた時、前から「熊やん」と呼びかけられた。

寅三であった。俺はくわわわわ、と思った。寅三が声をかけたせいでしらたきの言葉が最後まで聞き取れなかった。一体何を言おうとしていたのだろうか。寅三がほっとしたような顔で走り寄ってきた。

「しらたきちゃん、熊やんと一緒におったんか、安心したわ」と息を切らして言う寅三に俺は迷走的な気持で応えた。

「偶然、近くで会うてな、今から家ィ送りィいくとこやたんや」

「そうだんね、うちのもんがみな血の気引いたよな顔で探し回っとってな、ははは、まあわいは多分熊やんとこおるんちゃうかおもて熊やんち行くとこやってん」

「ほうか、そら入れ違いならんでよかったな」と言いながら、なんで入れ違いになってくれへんかったんや、とこの偶合をのろうた。

「せやが、熊やん、しらたきちゃんと一緒おるとこうちのもんィ見つかるとよろしないね、今以上の堅牢の門になってまいよるわ」

「せやね」と言いながら俺は身を切られるような感触になった。

「またこうゆうことあたら、わいを呼びィ来てくれたらええね、そしたら迎えに来るさかい」

「そやな、おおきに寅ちゃん」

「ほな、しらたきちゃん連れて帰るわ、あ、あいた熊やんち行くさかい、日没あたりかな、飲みに行こうな」と気前好く言う寅三に手を振って返し「おう、ほな待っとるわ、気ぃつけて帰りや」と二人が歩き行くのを見送った。最後にしらたきと一目合わした時、俺はたまらなかった。だんだん遠ざかってゆく、しらたきと寅三の後姿が闇に消えてゆく、俺は振り返らないだろうかとしらたきの後姿を見送っていたが振り返ることなく寅三に手を引かれてしらたきは見えなくなってしまった。

俺はこれから寝られるまでに何をすればいいのかと思った。ただ酒を痛飲するのではこのたまらない愁傷、喪失感は弛んではくれないだろう。こうゆう時に仕事があれば人は救われるのだろうか。しかし俺には不幸にも仕事がない。そこらの田や畑の雑草たちをすべて奉仕の思いで引っこ抜いて回ればよいだろうか。俺などに引っこ抜かれた雑草たちは哀れである。俺がするべきことが何一つない。俺は出家するべきなのだろうか。そう思いながら、やっぱり博奕しに行こうと思い博奕場へととぼとぼ足を引き摺る様にして歩いた。博奕場なら大勢の人間にまみれていくらか気が紛れるかもしれないと思ったのだ。俺は途中に一升瓶を買って行った。

一升瓶をぶらぶら提げて呑みながらふらふらと歩いて着いた賭場で、俺は自棄の弥ン八となり酒をがぶがぶ呑んで飲んで銭を張り張倒して行った。気付くや二十五円勝ち取っていた。しかし俺は今日は勝つ為にやっている博奕ではなく、博奕に集中してほかのことを一切考えないためにしているだけだから負けても別によかった。酒でほてり狂った脳を垂れ流す、汲み取り式の厠のように流した脳は博奕場の暗くて狭い空間を漂って行き場がないのでまた自分の頭がそれを汲み取って脳の中に戻ってきてまたそれを脳から垂れ流すのを繰り返しているだけである。

その脳には銭、賽子、壷ザル、四匁蝋燭などしか映っていない。人間を脳内から根絶させようとしている。ある不安は但一つ一升瓶の酒がもうちょいでなくなってしまうということに俺の脳がきりきりきりと鳴く。ぶっ倒れる寸前のような気もする、早く打っ倒れたい。俺はここで打っ倒れてしまったら俺を家まで送り届けてくれる人はいそうにないし、いたとしても俺が気絶してしまっていては誰が俺の家の場所を説明するのか。てことは俺は明くる朝までここで気絶したままで凍え死ぬということも考えられる。そうならないうちに去なねばならん。と俺は「ほな、おいとまを」と言いかけたその時である。

 俺の左側向こうのほうから「胡魔化ししとんちゃうけ」と言う声が聞こえた。明らかに悪意のこもった言い方であった。俺はその場にぬっくと立ち上がるとその声がしたほうを振り返って「われ、だれィゆうとんね」と言った。舌が半分回っていなかった。すると一人の知らんおっさんがにやつきながら「ひょひょ、地獄耳やのぅわれぇ、誰のことやて一人しかおらへん、のっ」と皆に同意を求めるように言った。「前回も見とったけど、そない勝ち続けるんはなんか胡魔化しでもせなおかしいちゅうとんねん」とそのおっさんの言い方が癪に障った俺は「ほな俺がどうゆう胡魔化ししとんか説明したってくれへんけ」と俺は立っているのも難儀であったので、恫喝も含めそのおっさんの前にずたずた寄っていき、その肩に腕を回して凭れ掛かりたかったので俺はそうしながら「おい、はよ説明したれや、俺に」と言った。するとおっさんは思い切り腕をぶんと振って「んなもんわしが知るかあっ」と言ったそのおっさんの振り解こうとした肘がまともに俺の顔面中央に直撃して一瞬何が起こったのかよくわからなかったが、顔の真ん中部分に激烈な痛みを感じて俺は鼻の下を拭うと手の甲に鮮血がぬらと付いた。それを見た俺は体内を流るる血がいっせいに沸騰したようになり、その瞬間にはおっさんの顔面を思い切り殴っていた。打っ飛んだおっさんの顔面も血だらけになっていて、元からないのか俺が殴って折れたのか前歯の二本がない間抜けな顔で「ひいいいいいぃっ、痛いぃ、歯が折れた」と言ったので、あ、俺が折ったんや、と思いながら続けざまにおっさんを打ん殴ってやろうとしたら周りのもんに後ろから、横からと止められて関係のないもんまで頭突きまわして「おまえもか」「おまえもか」と言いながら全員掛かってくる奴らを滅茶苦茶に撲り倒していると、しまいに全員から思い切り足蹴り、どこから持ってきたのか丸太棒でおもくそ脾腹を撲られるなどして、俺は激しい痛みのあまり小さくなって頭を抱えて丸くなった。撲られ蹴られながら俺は思った。いつもこうだ、相手が間違っていて俺が正しいのに誰も俺の味方となってくれる奴はいない、俺の言うことを誰も聞いてくれない、俺は胡魔化しをやっていない、俺は暴力というものが本当に嫌いだがあえて暴力の恐ろしさを見せ付けて暴力が大嫌いだということを言いたかったんや、暴力はこんなに嫌な気持になるものなんだとみんなにわかってほしかったんや、なのにこいつらときたらなんもわからないのか、俺がおっさんを撲って清々しているとでも思っているのか田沸けども田でも沸かしとけ、俺は暴力を信じない、俺は暴力を信じない、俺は暴力を心から憎む、そう思いながら俺は側にあった一升瓶を掴むと丸太ン棒で撲ってくる男の肩に振り上げた。その時逆さになった一升瓶から残っていた酒が俺の顔に降り懸って酒が鼻の中に入り激痛を享受した、惠の激痛だ、俺は肩を撲られ痛みで転げ回っている男の横で一升瓶を持ってのそっと立ち上がると「どたまかち割られたい奴来んかあ」と力無い声で言った。みんな黙って退いて様子を伺っている。「おい、なんや目ェがいっとんど」「やばいどこら」と口々にぼそぼそ言っているのが聞こえる。

その時俺の視界に横なぐりに細かい雪みたいなものが吹雪きだした。俺は知らない間にみんなに向かい落ち着き払ったように話し出していた。

 「もう、猛吹雪がやってきまして、さぶいったらありません、凍える?ノン、そんなのとうに超えてるんです、だから吹雪いてまんねん、でもそれは真横に吹いているくらいの激しい風雪です、そこへ飛んでくるものがたくさんあるんです、例えば食卓に並んだ酢醤油の瓶なんかも勿論飛んできますけれども、まあそれはいいとして、俺が見たのは、雪兎が見えたね、なんでか、小さい誰が作ったかわからんのだが雪兎が真横に飛んできてんね、むっさ速い、そりゃ速いよ、風速がなんせ凄く凄く速いから、雪兎が風速で真横に飛んで行き林の中を神速して樹に激突したんや、どうなるかおまえらにもわかるやろ、雪兎は粉々に成り果てたんや、それがどうゆうことかおまえらにわからんか、雪って脆いっちゅうことや、もろすぎんねん、もろいからなあ、雪は雪なんやで、おまえらは今そんな雪景色の向こう側におる、その懸隔の中間は美しい雪景色やゆうから皮肉やね、おまえらは醜いし、俺も醜い、その中間をものすごい速さで走って行って死んだ雪兎の気持は量り知れんて思うね、誰が殺したかわかるか、俺とおまえらや、俺とおまえらの暴力が白い雪兎を殺してもうたんや、それを俺に伝えたかったから俺にこんな吹雪く景色を見せたんや、俺らが暴力を駆使したそこで苦しんで死んだんか、苦死か、櫛の形そういや雪兎の形やったなあ、その形を壊したんだよ、おい、てめえらわかってんのか、なんとか言えよ、おい、壊したら元通りできねえんだよ、おい、こら」とだんだん声が荒くなってきたら、横から伊達の褌ちゃんが「もう今晩はここらで退散しいひんか」としんどそうな声で言った。俺はそれに反応してまた話し出した。まだ肩を撲られた男が俺の横で「いてえよお、いてえ」と言っていた。

 「たいさんか、おまえらは胎散すんねやな、そうやって胎内に散らばろうとする、胎児になってまた行きたいところへ行こうとする、胎内は騒がしい、俺は探すんや、そう、胎内は雪原の如く白いからおまえら逃げてもすぐ見つけてまた撲ったる、散らばりたいだけ散らばればええさ、ええさ、俺はおまえらを引き戻したるさかいな、散らばってもな、無駄やで、そやさかいな、俺もな、散るわ」と限界を感じた俺が言うとふらつきながらいつの間にか下ろしていた一升瓶をまた持つと「空やわ」とびびった顔で俺を見ていた狸の豆やンに向かって言って一升瓶を置くと、俺は博奕場をいんで寝所へ生ける屍のようになって歩いているのかよくわからないまま帰った。

 寝所に着くと俺は蒲団のあるところまで這ってってそのまま失神した。




























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